EU
2016年07月26日
「インテリンチ」の衰退、そして国民が自らの声を取り戻すとき
メディアが大衆を罵倒する「インテリンチ」の横行、マスメディアは自己崩壊過程に突入中
「インテリンチ」は筆者の造語であり、簡単に言うと「大学教授やジャーナリストなどのインテリの人々が大衆自身及び大衆が支持する政治家・政策をメディアの紙面を使って罵倒(啓発)する行為」を指します。
一昔前まではこれらの有識者を僭称する人々とマスメディアの力が結託することを通じて大衆向けの印象操作を実施し、それらによって情報力が相対的に不足している人々が妄信させられるという傾向がありました。
しかし、現代社会ではもはや現実から遊離したメディア上の権威による言葉は人々には届かなくなっている・信用されなくなっている状況が生まれています。
そして、マスメディアは自らが報道している内容が大衆から信用を失っているにもかかわらず、大衆を啓発するつもりで罵倒を続けています。インテリンチの無意味さ・陳腐さに気が付かないマスメディアは崩壊過程の中にあると言っても過言ではありません。
米国の大統領選挙・英国のEU離脱国民投票もインテリンチとは真逆の結果に・・・
たとえば、米国ではトランプ氏に対するメディアの罵倒は日々繰り返されているわけですが、共和党大会後のトランプ氏の実際の世論調査の数字は跳ね上がり、ほぼ全ての世論調査の数字でヒラリーを上回る状況が生まれています。
日本に入ってくる米国大統領選挙の報道内容は米国の報道または権威を経由した情報を垂れ流しているため、実際の米国の大統領選挙の支持率とはほとんど関係がないインテリンチ系の情報ばかりです。
筆者は昨年の予備選挙段階から筆者は一貫してトランプ勝利を予測してきましたが、日本国内に入ってくる情報は常にトランプ敗北予測という一面的で誤った情報ばかりでした。
また、英国でもEU離脱に関する国民投票について、離脱派に対するインテリンチは英国民の行動に影響を与えず、順当な結果としてEU離脱派が勝利することになりました。現在も離脱派に対するインテリンチは継続中であり、英国大衆の世論とは遊離した偏った報道を日本でも目にすることが多いことを残念に思っています。
(最新の米国大統領選挙の世論調査、メディアのインテリンチ下でもトランプ圧勝の構図に)
これらの現象は象牙の塔に閉じこもった学者の発言やイデオロギーで目が曇ったジャーナリストの報道などへの信頼が崩壊し、まさに人々が自分の生活実感に基づいた政治行動を行うようになっていると言えるでしょう。少なくとも政局同行を捉えるにあたって、それらのインテリンチ報道の情報価値は極めて減退している状況となっています。
参議院議員選挙・東京都知事選挙を通じて「インテリンチ」の無力化が進みつつある
日本でも、参議院選挙における改憲3分の2の阻止、ジャーナリスト鳥越氏による空疎な非核宣言、学者による反知性主義批判など、戦後民主主義を形成してきた左派メディアの言葉は有権者に全く届かなくなっています。それらの言論の支持世代を見てもノスタルジアの世界に生きる高齢男性と現実を知らない一部の若者らが支持しているにすぎません。
インテリを僭称してきた人々の言葉が実は生活実感とはかけ離れたママゴトのようなものであり、人々の生活の改善とは結びついていないことが明らかになったことで、権威的な大手マスメディアの影響力は下がる一方という有様です。
東京都知事選挙でもマスメディアには主要3候補者という絞り込みを行う力はあっても、その三者の戦局を左右するだけの影響力はもはや持ち合わせていない状況となっています。また、多くの人々からはそれらの絞り込みすら懐疑的に見られており、上杉隆氏のような論客がネット上では静かに注目を浴びる状況も生まれています。
「インテリンチ」によるマスメディア衰退は「国民が自らの政治的な言葉を取り戻す」ことにつながる
長年インテリンチに従事してきた鳥越俊太郎氏の週刊文春に対する二重基準の対応を受けて、日本でもメディアによるインテリンチは急速に更なる信頼を失うことになるでしょう。
筆者はインテリンチが信用を失うこと、マスメディアが影響力を失うことは良いことだと考えています。なぜなら、その結果として、国民が自分の政治的な言葉を取り戻すようになるからです。
インテリンチの無意味化によって、メディアや有識者らが設定したポリティカルコレクトネス(政治的に正しいこと)を述べることが求められる政治から自分が思ったことを率直に述べることが許される政治に変化していくことになります。
つまり、単なる儀礼的な作法と化していた政治的な議論が生命を取り戻し、国民が自らの声で国の方向性を決める力を得ることができるのです。日本の政治も長い政治的な言論の不毛な状況から抜け出すきっかけを掴むところまできています。
本記事の内容は所属機関とは関係なく渡瀬個人の見識に基づくものです。取材依頼や講演依頼などはyuya.watase02@gmail.comまでお願いします。
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2016年06月30日
批判されるべきは「英国」ではなく「EU」じゃないのか?
非民主的・排他的なEUという存在が批判されるべき真の対象である
英国のEU離脱が決まった直後から主要なメディアで「英国がEU市場から締め出される!英国民は後悔している!」的なインテリたちの罵倒記事がひたすらアップされました。
元々残留派の主要な主張は「EU単一市場へのアクセスがEU離脱によって閉ざされる可能性」を指摘するものが多く、主に経済的な理由から残留を求める視点が強かったものと思います。
つまり、「EU官僚の政治的な支配を受け入れなければ、EU市場にアクセスできなくなるので、英国の民主主義は制約されても仕方がありませんね」ということ、そして「グローバルな経済が分からない離脱派は馬鹿だ」というキャンペーンだったわけです。
しかし、このような排他的な市場の存在を肯定する思考自体がグローバル経済の視点に立った場合に批判されるべき考え方ではないでしょうか?筆者は英国の決断よりもEUの存在のほうが批判されるべき対象であると考えています。
「政治統合を受け入れなければ市場統合は無い」という誤った考え方
欧州域内ではブリュッセルのEU官僚による指令によって実質的に様々な規制・財政措置が決定されています。国際的な官僚機構によって参加各国の民主主義は制約を受けているといっても良いでしょう。つまり、現代版の社会主義連邦がEU(欧州連合)の本質です。
そして、その社会主義連邦を抜けた英国がEU市場にアクセスできなくなると脅しをかけるEU官僚たちは、非民主的なEU機構を率いる重商主義者そのものであって、国際紛争を何度も引き起こしてきたブロック経済の亜種のようなものを堂々と主張していると捉えるべきです。
根本的な勘違いは「政治統合を受け入れなければ市場統合は無い」という誤った考え方です。
そもそもブリュッセルによる中央集権的な政治統合は欧州全域の自由市場の確立にとって必要条件ではありません。自由市場が必要であれば各国ごとに交渉して国民の合意を経ながら自由化を進めていけば良いだけです。
「政治統合と市場統合は一体である」という誤謬に基づく批判は的外れであり、欧州だけでなく日本のインテリたちも英国の離脱派を愚か者のように批判していますが、真に批判されるべき対象は非民主的・排他的なEUという存在なのです。
英国が間違った方向に進んでいた欧州を正す存在になるだろう
本来、国際的な言論として喚起される主張は、EUを離脱する英国に対するEU側の脅しを批判するものであるべきです。英国をEU市場から締め出すというコメントを発する人々の重商主義的な世界観が否定されるべきです。
離脱派のボリス・ジョンソン元ロンドン市長が発表した英国の民主主義を守りながら自由貿易を推進するという主張は「非現実な良いとこ取りだ!」としてメディアで批判されましたが、彼の主張は極めて真っ当な主張であって批判される理由は全く見当たりません。
むしろ、「巨大な市場へのアクセスのためには民主主義が制約されるべきだ!」とか、「民主主義を守るために自由貿易は止めても良い」とか、それらの主張が目指すべき理想として適切なはずがないのです。
EUは欧州での戦争の惨禍の再来を防止するとともに、旧ソ連などの地域に民主主義を拡げていくことに貢献しましたが、いつの間にか巨大な社会主義的連邦組織に自らが堕してしまいました。
ボリス・ジョンソン氏が述べた「英国がパワフルで自由で人間的でよりよい世界のための大きな力になる」という自己認識は正しく、間違った方向に進んでいた欧州を政治的に正す存在として英国の役割は大きくなるでしょう。
英国のEU離脱は初期は社会主義思想や短期的な投機思考に染まったインテリ・ビジネスマンらによって批判され続けると思いますが、長い歴史から見れば英国民が行った英断だったことが証明されることになります。
本記事の内容は所属機関とは関係なく渡瀬個人の見識に基づくものです。取材依頼や講演依頼などはyuya.watase02@gmail.comまでお願いします。
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2016年06月27日
英国EU離脱・トランプ現象は「インテリンチ(Intelynch)」が原因
エコノミスト、大学研究者、ジャーナリストの言葉は分析ではなく大衆への侮辱ばかり
英国国民投票や共和党予備選挙に際し、「インテリ」からEU離脱派・トランプ支持者は数え切れないほどの侮辱の言葉を浴びせられてきました。そして、それらの侮辱は国民投票で離脱派勝利・予備選挙でトランプ勝利に終わった現在も続いており、依然としてメディア各紙の紙面に新規に掲載され続けています。
インテリは「大衆」を「低所得・低学歴のポピュリズムに毒された人々」と定義して、勿体ぶった表現を駆使して社会分析に見せかけた大衆への罵倒・侮辱を楽しんでいます。
インテリに罵倒の限りを尽くされた低所得・低学歴とされた大衆は、反論する言葉を持たず、反論する媒体を持っていません。必然的に言論空間はインテリにとって大衆への容赦のない罵倒の言葉を吐き続けることが可能な安全圏となっています。
安全圏からの大衆への容赦のない罵倒は「インテリによる大衆への言論的なリンチ」(インテリンチ:筆者が作った完全な造語ですが・・・。)であり、絶対に反論できない対象をいたぶる虐待行為のようなものです。
「インテリンチ」は逆効果、インテリと大衆の断絶は決定的なものに
インテリは快適な執務室や研究室から実際の生産活動に従事している大衆を小馬鹿にし、離脱派・トランプ支持者を「嘘に騙された・金が無い・頭が悪い」と述べるだけで仕事になりました。(ちなみに筆者は片方が一方的にデマを述べており、もう片方が全て正しいことを述べていると思うほど政治的に初心な思考は持っていません。)
大衆の知性に対する罵倒行為である「インテリンチ」は、インテリを自称する人々による低所得・低学歴者への人権侵害行為であり、これらの無配慮なリンチに曝された人々が投票行動という言葉を用いない手段でインテリどもに一矢報いたことは当然のことでしょう。大衆はインテリに対して自らの尊厳を守る行動を行っただけです。
ちなみに、当然のことですが、トランプ支持者や離脱派の中にも高所得高学歴高リテラシーの人達は存在しています。しかし、彼らに原稿執筆の機会は与えられず、その機会が与えられたとしてもポピュリズムを煽る扇動者という評価がインテリンチによって同時に与えられることは明白でした。
したがって、インテリンチを良しとしない知識人も、その知識があるがゆえに声を上げることはありませんでした。その結果として、言論空間に表層的に現われる評論は「インテリンチ」しかなくなり、それを真に受けた「インテリ仲間」がひたすら「インテリンチ」を増幅させてきました。
「インテリンチ」はまさに弱いものを虐める学校のイジメのような構造を持っています。腕力の代わりに言語表現力と媒体紙面を持つインテリが言論的な弱者を寄って集って言葉で暴力を振るっているわけです。 彼らの言葉が大衆に届くわけがありません、政治的な体裁を整えただけのただの人権侵害行為なのだから。
したがって、インテリンチを良しとしない知識人も、その知識があるがゆえに声を上げることはありませんでした。その結果として、言論空間に表層的に現われる評論は「インテリンチ」しかなくなり、それを真に受けた「インテリ仲間」がひたすら「インテリンチ」を増幅させてきました。
「インテリンチ」はまさに弱いものを虐める学校のイジメのような構造を持っています。腕力の代わりに言語表現力と媒体紙面を持つインテリが言論的な弱者を寄って集って言葉で暴力を振るっているわけです。 彼らの言葉が大衆に届くわけがありません、政治的な体裁を整えただけのただの人権侵害行為なのだから。
深刻な問題は「大衆の無知」ではなく「インテリの言論のレベルの低さ」にある
現実に民主主義的手続きを経て下された結論は「インテリンチ」による虐待で悦に浸った「インテリ」の望みとは違うものとなりました。
そして、実際には思考停止した不毛な文章を生産し続けたインテリの知的劣化こそが問題なのです。インテリたちはそもそも政治的・社会的エリートとして、様々な言論発信を通じて大衆の意見を代弁してきました。いや、どちらかというと代弁するフリを続けてきたと言っても良いでしょう。
しかし、現在の彼らの姿はどうでしょうか。インテリたちは大衆への自らの言論の押しつけすら放棄し、大衆を罵倒するだけの無様な存在になり下がりました。それは彼らが社会を描く能力と意志を元々持っていなかったor失ったことの証左です。
トランプ現象・英国EU離脱派は陳腐化したインテリの知性に対する大衆の知性の反逆であり、インテリによる大衆への私刑の場と化した言論空間への拒否反応です。
インテリを自称するor自覚している勘違いしたエリートは「インテリンチ」への参加は程々にして、未来の姿を描く言葉を身に付けるためにもう一度大衆の中に入ってみたらどうでしょうか。なぜなら、インテリの無知による言論レベルの低さこそが問われるべき真の問題だからです。
本記事の内容は所属機関とは関係なく渡瀬個人の見識に基づくものです。取材依頼や講演依頼などはyuya.watase02@gmail.comまでお願いします。
yuyawatase at 21:05|Permalink│Comments(0)
2016年06月24日
英国国民投票、トランプ現象、舛添への絶望を読み解く
貴族化した政治家の声は大衆には届かなくなった
今回の英国国民投票で主要政党の有力政治家が散々残留を支持する呼びかけてきた。メディアや有識者も賛否は分かれたものの、彼らの残留を支持する声が多く掲載されてきた。
米国においてもトランプが共和党予備選挙に出馬して以来、有力政治家、メディア、有識者はトランプを袋叩きにしてきたが、トランプは予備選挙において他候補を退けて圧勝することになった。
大衆の結論は「民主主義で選ばれたはずの既存の有力政治家の声を受け入れない」というものだった。この結論は「彼ら政治家の顔はもはや民主的なものではない」ということ、を意味している。
有力政治家たる貴族もどきが声を上げれば上げるほど、大衆の間には言葉にできない嫌悪が募る、その心の断絶は確かなものだと証明された。彼らの主張は大衆には届かない。もはやその顔と言葉が嫌悪の対象なのだから。
政治家主導の民主主義で提示される腐ったメニューをガラガラポンした人々
政治家主導の民主主義で提示される腐ったメニューをガラガラポンした人々
大衆の行動の裏側には有力政治家によって予め選択肢が調整されてきた政治への嫌悪がその根底にあるのだ。閨閥や縁故によって貴族化した政治家の声など、民主主義とはもはや関係が無く、貴族と官僚が作り出したルールなど糞くらえだという民衆の声が聞こえてくるようだ。
大衆は馬鹿ではなくて自分たちが政治家に馬鹿にされていることは理解している。EU全体の経済システムなんて分からないだろ、俺たちエリートに任せろよ、というキャンペーンが成功するわけがない。そのことが分からないくらいに政治家は貴族化しているのだと思う。
大衆は馬鹿ではなくて自分たちが政治家に馬鹿にされていることは理解している。EU全体の経済システムなんて分からないだろ、俺たちエリートに任せろよ、というキャンペーンが成功するわけがない。そのことが分からないくらいに政治家は貴族化しているのだと思う。
民主主義の形式を取って提示されるメニューが全て腐った料理であり、自分たちがシェフによって馬鹿にされていること、そのことに対する反感が噴出したのだ。
ジャーナリストや金融関係者が解説するBrexit以後に何が起きるのか?という解説記事が溢れているが、「エリートの分析など糞くらえ、お前らの記事を読みたくない」という意志が示されたわけで大衆の空気を読めないにもほどがある。
ジャーナリストや金融関係者が解説するBrexit以後に何が起きるのか?という解説記事が溢れているが、「エリートの分析など糞くらえ、お前らの記事を読みたくない」という意志が示されたわけで大衆の空気を読めないにもほどがある。
なぜ、大衆の意志は言語化されてきていないのか?
「民主主義と既存の政治家の顔が分断している」ということが最も意味ある結論であり、民衆が求めていることはEU離脱やトランプの台頭という表層的な現象ではなく、貴族と官僚から民主主義を取り戻すことなのだと思う。
「民主主義と既存の政治家の顔が分断している」ということが最も意味ある結論であり、民衆が求めていることはEU離脱やトランプの台頭という表層的な現象ではなく、貴族と官僚から民主主義を取り戻すことなのだと思う。
しかし、貴族と官僚の代弁者であるメディアや有識者は、英国国民投票は「移民への反感」、トランプは「格差問題」として、彼らの文脈での評価を下し、決して貴族・官僚・メディア自身の存在こそが問題だとは言わない。
したがって、大衆は言葉にできない憤りを投票行動による数字、として表現することしかできない。彼らに言葉を与えるべき有識者は大衆性を失って、エスタブリッシュメントのお友達になっているのだから。
大衆の「無名の意志」に名前を付けてもらっては困るわけで、それらを無名のままにしておく、または既存の自分たちが作った文脈の中に押し込めるのが彼らの仕事である。
せいぜい「政治不信」という既存の体制への不満を表現しつつ選択を与えない表現が選ばれるくらいで限界だろう。
偽装された民意の解釈、日本は怒りではなく絶望として表現されるのか
大衆の「無名の意志」に名前を付けてもらっては困るわけで、それらを無名のままにしておく、または既存の自分たちが作った文脈の中に押し込めるのが彼らの仕事である。
せいぜい「政治不信」という既存の体制への不満を表現しつつ選択を与えない表現が選ばれるくらいで限界だろう。
偽装された民意の解釈、日本は怒りではなく絶望として表現されるのか
日本においても安倍首相・岡田代表の非大衆振りはもちろん、小泉進次郎の似非大衆性への違和感は国民の間に広がりつつあると思う。そして、それは左翼の欺瞞的な大衆性とも違う形で噴出するべく、マグマが貯まり始めている。
自らもエリート化したメディアとそれに出演するフィルタリングされた有識者では、大衆の気持ちを表現することなどできもない、そしてそんなことをやろうともしない。SEALDsに「民主主義って何だ!」と言わせてメディアが取り上げたところで、メディアと既存の政治家達による欺瞞性の匂いは消しようがないのだ。
また、小泉進次郎が何を言おうとピンと来ないのは、彼が大衆と違うことが外形的に明らかであるにもかかわらず、その言葉だけが民衆の声を代弁しているように見えるように演出されていること、つまりはガス抜きであることが本能的に感じ取れるからだ。
日本では大衆の怒りが選挙で表現するような機会が与えられず、舛添氏を袋叩きにする形で表現されただけだ。そこに深い絶望を感じざるを得ないし、目の前を通り過ぎていく喧しい選挙カーの音がむなしく響くだけだ。
また、小泉進次郎が何を言おうとピンと来ないのは、彼が大衆と違うことが外形的に明らかであるにもかかわらず、その言葉だけが民衆の声を代弁しているように見えるように演出されていること、つまりはガス抜きであることが本能的に感じ取れるからだ。
日本では大衆の怒りが選挙で表現するような機会が与えられず、舛添氏を袋叩きにする形で表現されただけだ。そこに深い絶望を感じざるを得ないし、目の前を通り過ぎていく喧しい選挙カーの音がむなしく響くだけだ。
今、最も必要なことは貴族・官僚・メディアへの嫌悪という大衆の意志が、彼らによって捻じ曲げた解釈を与えられる前に、その意思に名前をつけて呼ぶことだろう。
yuyawatase at 17:50|Permalink│Comments(0)