自由民権

2015年11月10日

小沢一郎・民主党政権に対する民権史観に基づく総括

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「宙に浮いた」民主党政権の総括

2009年に自民党から政権を奪取した民主党は政権を獲得した衆議院議員選挙の直前から内部闘争を繰り返し、最終的には政党としての理念を喪失する形で2013年末に下野することになりました。

国民は民主党が実行不能なマニフェストを作成した政党であり、政権を運営する力が無いものとして判定した結果、2015年現在民主党の支持率は回復しないどころか空中分解的な様相すら示しています。

現在、私たちは自公政権を日本政府の担い手を任せていますが、必ずしもベストな選択としてそれらを選んだわけではなく、自民党の他に政権担当能力がある政党が存在していないという状況が背景に存在しています。

このような状況に陥った理由は、私たちが「民主党政権とは何だったのか、彼らは本来何をやろうとしたことは何か」ということを総括していないことに起因します。アベノミクスなどの経済政策はともかくとして、政治的なパラダイムとしては時が止まったままの状況に置かれています。

小沢一郎氏の党代表選挙の際の演説

民主党政権を実質的に創った人物は小沢一郎氏と言っても過言ではないと思います。政権奪取前の民主党に小沢氏が合流することで民主党は理念と力の両方を得ることに成功し、鳩山政権の崩壊と小沢氏の代表選挙敗北によって民主党政権は終わりに向かいました。

つまり、民主党とは小沢氏が創り上げた政党であり、民主党の本質は小沢氏の言葉の中にあり、そして小沢氏が居なくなった民主党はもはや民主党ではないと言えます。現在の迷走ぶりはまさにそれを端的に表しています。

民主党の総括とは、小沢氏が民主党で進めた政治理念・政治行動に対する総括であり、その小沢氏が進めた標榜していた政治理念は2010年の小沢氏の民主党代表選挙における演説に凝縮されています。

2010年小沢一郎氏・民主党代表選挙演説全文
http://www.asyura2.com/10/senkyo95/msg/254.html

小沢氏が進めようとしていた政治の本質とは「官僚主導」から「政治主導」への転換ということになります。

<一部抜粋>
①「しかしその改革は、明治維新以来、百四十年続く官僚主導の政治を、根っこから国民主導、政治主導に変えな
ければ、とても成し遂げられるものではありません。私の頭の中を占めているのは、その思いなのであります。」

②「官僚支配の百四十年のうち、四十年間、私は衆議院議員として戦い抜いてきました。そして漸く、官僚機構と対峙できる政権の誕生に関わることができました。我々は「国民の生活が第一。」、の政治の幕開けにやっとこぎつけたのであります。」

小沢氏の尊敬する人物は原敬元首相だと耳にしておりますが、原内閣で実行された政治主導の試みが小沢氏が民主党政権でやろうモデルである、と考えることが妥当です。つまり、民主党政権がやろうとしたことは「官から政へ」という政治力学の構造転換を総括することで初めて完了するのです。

政治主導としての政治任用と党への陳情の一元化 

民主党政権時代、自分は下記の2つのニュースに注目してきました。

①霞が関の局長クラスまでの政治任用化
「民主政権では「局長以上は辞表を」 鳩山幹事長語る」
 http://www.j-cast.com/2009/02/10035695.html

②民主党本部への陳情一元化
「政権交代後の陳情対応の変化とは。透明性と公平性を推進」
https://www.dpj.or.jp/article/100009
「自治体首長が「民主党詣で」 陳情一元化、自民打撃も」
 http://www.47news.jp/CN/200911/CN2009111301000814.html

①は戦前から官僚と政治家の間で繰り広げられてきた幹部職員の人事権を巡る争いです。特に戦前は政府の中に政党の意向をくんだ人物が入り込むことを阻止する官僚との暗闘が続きました。戦後は官僚による政治支配が進む形となり、政府内の政治任用職はほぼ存在せず、自民党を中心に高級官僚が議員になる状態が常態化してきました。結果として①は実現されることなく国家戦略局などへの中途半端な政治任用の拡大に終始しました。

②は各省庁が所管している利益団体や地方自治体との繋がりを断ち、官僚がそれらの団体に対して差配する権限を弱めるための政治的な転換となりました。従来までは利益団体や地方自治体は政治家に陳情を行うものの、実際には議席に関係なく永続的な影響力を持つ官僚機構への政策要望の陳情を重視してきました。それらの流れを断ち切って、政党が政策反映へのアクセスポイントを独占することで官への優位を確立する道が開かれました。

小沢氏が目指した「官僚主導から政治主導」へという流れは上記の2つの方法によって実行されるものです。①は中途半端な形でしか実行されませんでしたが、②は短期間ながらも実行されたことによって細野元幹事長党という次代を担う人材の育成が行われることになりました。

民主党政権の末期における「官僚主導」の復活

私自身も民主党の個々の政策に関する賛否はありますが、民主党政権の政策が実行されなかった理由の一つとして、官僚機構による抵抗と巻き返しによる影響が大きかったように思います。特に財源問題などは盤石な政治主導が確立されることによって徹底した歳出削減と予算の組み替えでねん出できるはずですが、中途半端な政治主導では官僚機構の牙城を崩すことが出来ずに前提が崩れてしまいます。

派手な事業仕分けでは大した財源がねん出できないことは当然であり、官僚から政治家への予算編成権の根本的な移譲を実現させるために政治改革の断行は必要不可欠でした。しかし、政権から小沢氏が排除されたことでその道は閉ざされることになりました。

一方、菅首相は就任時に「
官僚の皆さんを排除し、政治家だけでモノを考えて決めればいいということは全くない。官僚の皆さんこそ、政策やいろんな課題に長年取り組んできたプロフェッショナルだ。官僚の皆さんの力も使って政策を進めていく」と述べることで官僚主導の復活を鮮明化しました。
菅政権の跡を継いだ野田政権もかつて自分自身が税金にたかるシロアリと揶揄した官僚と一体なって消費税増税を実現しました。さらに、民主党から自民党に政権が戻ることで政治主導の芽は完全に摘まれることになりました。

以上のように、民主党政権は官僚主導から政治主導を成し遂げるための政権交代を実施したと言えますが、逆に政権任期の途中から官僚と一体化した勢力によって反政権交代が行われたことで改革が未完に終わったという評価が妥当だと思います。

民主党の政権時代には2つの民主党が存在しており、当初に意図した民主党は途中で追い出されて、自民党とほぼ同一の民主党が力を持ったため、政権奪取時に掲げていたマニフェストは実行されなくて当然です。

小沢民主党の総括、事態の更なる悪化へ

民主党政権で未完に終わった政治主導のプロジェクトを理解することで、私たちは次の時代に進むための道標を手に入れることが出来ると思います。

小沢民主党の失敗は政権奪取のために政府支出の増大、つまりバラマキを認めたことにあります。戦前の政友会時代から繰り返されてきたことですが、政府の利権を誰が分配するのか、という基準での争いを止めるべきです。

政治家は選挙の洗礼及びバイネームの活動という特徴を持っているため、政治家が官僚を上回る形で政府の利権を長期間運営することは不可能です。そのため、肥大化した利権は主導した政治家にスキャンダルが発生すると一瞬で官僚の手に落ちます。

本来必要な改革は政府が持つ利権を国民の手に戻す「小さな政府」です。小さな政府を推進することによってはじめて民衆は官僚に勝利することができます。

政官攻防史 (文春新書)
金子 仁洋
文藝春秋
1999-02




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yuyawatase at 12:00|PermalinkComments(0)

2015年11月08日

日本で「小さな政府論」が起きないのは司馬史観が原因

konsin
*高知市自由民権資料館HPから引用「自由民権運動に立ち上がった人々」

 小さな政府を主張する勢力が「維新」を称する不思議

米国ではナショナリズムと小さな政府の価値観が結びつくことにより、小さな政府を求める大衆運動が我が国とは違って盛り上がっています。(詳しくは
拙稿「日本でウケない小さな政府運動が米国で大衆化したワケ」を参照してください)では、何故日本では同様の現象が起きないのか?それは司馬史観という呪縛にこそあるのです。本稿では、日本において大衆レベルでナショナリズムと小さな政府の価値観が融合しない理由とその克服方法についても記していきたいと思います。

司馬史観に代表される超然主義の歴史観という病巣

現代日本人の歴史観に大きな影響を及ぼした司馬遼太郎の作品は日本の近代化が一部の英雄によってのみ実現したという英雄史観に立脚したものです。政治家の中にも『坂の上の雲』等を愛読書として挙げる人間が多いように、民衆レベルでの司馬史観への支持はかなり厚いことが分かります。


ただし、司馬史観が称える人物は維新志士や藩閥官僚などです。彼らは大きな政府・中央集権を推し進めた人々であり、民衆から自由と自治を奪ってきた人々と言えます。これは司馬史観が、明治国家の建設と近代化の歴史に民衆が寄与していない、かかわりのないものであったという物語だということです。いわゆる超然主義に基づく物語です。

超然主義とは何か。それは、「天皇の官吏」は民衆から超然(独立)として政治を行うという思想です。これは司馬が描いた維新志士らによる英雄史観とは、一握りのエリートが世の中を動かすという意味では全く同一のものです。故に司馬史観が民衆心理に浸透することは、超然主義者の末裔である現代の官僚らによる実質的な政治支配の正統性が国民に浸透することに繋がってきたのです。

 
「官僚に独占された日本の近代史」

日本近代史は官僚による国づくりへの功績によって実質的に独占された状況にあります。それは戦後復興史においても同一であり、経済再建への通産省の役割などが過度に強調される偏った歴史観が形成されることを通じて、官僚が政治に関与することへの正統性が守られてきました。

しかし、もしそうであったのならば、本田宗一郎は官僚からの命令に従って未だにホンダはオートバイしか作れず、日本の自動車産業は世界を席巻していなかったでしょう。ですが、実際の本田宗一郎は通産省の指導に逆らい、自動車業に進出し大成功を収めた歴史があります。

このように、本来の近代史においては、官僚=政府の活躍だけでなく、民衆の活躍が車の両輪として取り上げられるべきなのです。しかし、後者についてはすっぽり忘れ去られた状態となっています。むしろ、戦前の歴史においては軍部の暴走を止められなかった存在として、民衆の代表である政党の無力が強く描写させることも少なくありません。

日本の近代史と官僚=政府が深く結び付くことを通じて、日本のナショナリズムは「大きな政府」と常に一体化するようになりました。保守主義を標榜しているはずの自民党が政府規模を拡大し続けていることこそ、ナショナリズムと大きな政府という価値観が結びついた結果の証左でしょう。

「維新」という党名に現れる歴史観とイデオロギーのネジレ原因

2015年現在、小さな政府や地方分権を党是として掲げた保守政党が藩閥官僚による中央集権化を実現した「維新」を呼称する摩訶不思議な現象が発生しています。


この不可思議な政党名の呼称問題は、上記のような日本のナショナリズムをめぐる歴史観の構造的な問題に根差しています。「維新」という呼称が「大きな政府・中央集権」の歴史の象徴であるという大いなる矛盾がありながらも、「維新」以外にナショナリズムを象徴する適当な呼称が彼らには見つからなかったということです。

正しい歴史認識に基づく歴史用語を使用するためには、日本近代史の中でもう一人の主役であった「民衆」の役割を再発見する必要があります。

民衆のナショナルヒストリーとしての自由民権運動の再興の重要性

具体的には、日本近代史における「自由民権運動」というもう一つの国づくりの物語に再注目するべきです。民間の産業資本が勃興し、民衆が西欧思想を摂取していく中で形成された「国会開設と憲法制定を求めた初期の自由民権運動」をナショナルヒストリーとして再興することが重要です。


確かに自由民権運動は細かい解像度で見れば様々な問題があったのは事実です。しかし、板垣退助が「民撰議院設立建白書」の中で納税者が国政に対して意見を述べることは正当な行為であるとしたこと、進取の気風に富んだ私擬憲法が日本各地で作成されたこと、国会既成同盟などを通じて全国規模の議会設立要望が繰り返されたこと――それら明治初期の民衆運動を我が国のナショナリズムの根幹に再配置するべきです。そして、これらは恐れ多くも皇后陛下も繰り替えしご発言の中で、触れられている歴史であることに鑑みればより重要性を持つでしょう。

明治初期の自由民権運動を核とした歴史観を再興することを通じてこそ、ナショナリズム=大きな政府という、一辺倒の歴史観を是正し、ナショナリズム=小さな政府というソリューションを提供できる歴史観の構築が可能となるのです。

今こそ、自由民権運動をナショナリズムの根幹として位置付けるべき時代が来ているのではないでしょうか。



 


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