格差

2016年04月17日

浦和高校に「分断社会」解消の答えが「本当に」あった話

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東洋経済さん、いい加減な記事を載せるのはホドホドにしたほうが良い

浦和高校に「分断社会」解消の答えがあった!

という記事が結構読まれているらしいですね。最近、筆者はこの手の「ためにする」議論に食傷気味であるため、「また言ってるわ、ははは」って感じでしたが、今回は某所から読後感想を依頼されたのであえてコメントしてみます。

最初に言っておきたいことは、佐藤優さんも井手英策さんも一つの主張としては尊重したいということです。そして、悪いのは「東洋経済」であると断言しておきます。なぜ悪いのかというと、対談者による新自由主義への定義が曖昧な単なるプロパガンダを堂々と掲載しているからです。

同対談のテーマが「格差社会・分断社会が新自由主義によってもたらされた」であるにも関わらず、実際の対談内容が「新自由主義批判として成立していない」ということを理解せず、有名な識者が述べていることだからと恥ずかしげもなく掲載していること、を経済誌として反省するべきなのです。

アベノミクスを新自由主義だと述べる人は馬鹿か確信犯のどちらかである
 
筆者は以前に下記のような記事を書いてみました。

大人の教科書(15)日本一分かりやすいポリティカル・コンパス解説
大人の教科書(21)「新自由主義批判」という様式美

この2つの記事を要約すると、「新自由主義を批判すると日本の知識人の仲間入りできるが、実は何を批判しているかすら認識できていない言論に耳を傾けてはならない」ということです。

少なくとも安倍政権、そしてアベノミクスは「新自由主義」ではありません。現政権の経済政策は典型的なケインジアンであって「新自由主義からかけ離れた」ものです。財政拡大を繰り返しながら中央銀行に意図的に大規模な金融緩和を強いる行為は、新自由主義の経済政策とは正反対のものです。

アベノミクスを新自由主義と批判する人々は、モノを知らないのか、それとも意図的な確信犯なのか、の二択に当てはまります。今回対談されている二人は日本を代表する識者の方ですから当然に後者であることは明らかです。

そして、東洋経済は日本を代表する経済誌の一つです。したがって、用語の誤用によるプロパガンダに気が付かないわけがないので、同対談の掲載を許可した編集者としての識見や矜持を疑わざるを得ません。

縁故資本主義を新自由主義に偽装する人々の頭の中身について

新自由主義批判を行う際に多用されるプロパガンダは「新自由主義と縁故資本主義を混同する」というものです。これは日本における左派が採用する「自民党政権批判」のプロパガンダの手法の一つです。

上記で述べた通り、本来、新自由主義とは「肥大化した政府の機能を小さくする」思想であり、財政拡大・金融緩和を大規模に推進する自民党政権とは似ても似つかないものです。

むしろ、安倍政権の経済政策は「これでもか!」というくらい大きな政府のケインジアンなので、左派系の大きな政府を求める人は本来は大満足するべき政権なのです。

外国では新自由主義は「小さな政府」(減税・規制緩和)を求める政策は主に保守政党によって実行されています。しかし、日本では同じ保守政党である自民党が世界の潮流を一切無視して巨大な政府路線をエンジョイし続けています。

そのため、保守政党・自民党の小さな政府路線に対峙するはずだった左派系の人達は「あれれ、困ったなーどうしよう。自分で何を言っていいのか分からないので、外国の真似して新自由主義批判したいんだけども・・・」となるわけです。

そこで、大きな政府に付き物の「縁故資本主義」を「新自由主義」にでっち上げて語るというプロパガンダ戦術が展開されることになります。

日本の格差は市場ではなく政府が人為的に作り出したものだと認識するべき

縁故資本主義の下では、政権と癒着する大企業らが利益を上げることができます。そして、縁故資本主義の具体的な政策とは、財政拡大・金融緩和という大きな政府を実現する政策なのです。

政権に近しい人々が利益を上げる財政出動、金融資産保有者が利益を上げる金融緩和、アベノミクスは縁故資本主義の教科書のような政策です。

そして、左派は縁故資本主義に基づく大きな政府の政策によって人為的に発生した格差を「まるで自由市場が作り出したかのように偽装する」ことで自らの存在意義を日本の世間にアピールしているのです。

つまり、現状の自民党と新自由主義批判者との争いとは、「限られた政府財源」を「大資本と貧困者」が争っているだけなのです。佐藤優さんと井手さんが述べているように、あちらから引きはがしてこちらに回す、という実に醜い奪い合いですね。

生活水準の向上に必要な市場経済による富の拡大は語られることなく、タックスイーター同士のコップの中のつまらない争いを「壮大な政治思想の争い」のように演出することで多くの知識人はご飯を食べています。彼らは知識人という名のプロレスラーでしかありません。

アベノミクスでトリクルダウンが起きないのは当たり前です。市場による健全な形での経済成長を実現しないアベノミクスで全体のパイが増えるわけがありません。

なぜなら、アベノミクスは新自由主義政策ではなく縁故資本主義であり、左派が求めている社会主義的な政策の親戚だからです。したがって、左派の政策でもトリクルダウンやボトムアップも起きません。そこにあるのは麻薬の切れたアベノミクスと同じような経済衰退だけです。

飼いならされたブロイラーは自分が食用肉としての運命を義務付けられていることを知らない

最後に、彼らは「小さな政府になると自由が失われる」と主張しています。

なるほど、それはそうかもしれないと思います。小さな政府は「政府によって設計された人生劇場の台本通りに生きたい」という自由を侵害していることは確かです。

ただし、その際に彼らが想定している自由とは「食用ブロイラーの自由」、「牢屋の中の自由」、「予め設計された自由」を意味しています。食用ブロイラーは自分たちの運命が生まれた瞬間からすべて決まっているとは夢にも思わないでしょう。

残念なことに、彼らは他人が作った人生設計図を他者に強要することに何ら疑問も持たないのでしょう。実に素晴らしい自由主義者です。まさに、1984のビックブラザーも真っ青なダブルスピークです。「ゆりかごから墓場まで設計通りに生きることは自由なことだ」とは知りませんでした。

そうはいっても私は知識人を批判するつもりはありません。なぜなら、知識人はビジネスマンと比べて自由市場では役に立たないため、他人の人生を政府と一緒に設計することでご飯が食べられるからです。そのため、経済合理性の観点から彼らの言動は理解できます。全体のパイが減っても自分の懐が温かくなることが重要なので。

東洋経済などの経済誌の責任は非常に重いと思います。日本の代表的な経済誌として、新自由主義批判というプロパガンダ祭りはそろそろ終わりにして、もう少しマシな話題を読者に提供してほしいと思います。

ちなみに、東洋経済の中で述べられている「浦和高校のOBによる寄付」は新自由主義による民間の共助(≠政府)の話であって、富裕なOBによる愛校心の賜物であり、彼らが否定する強者による慈善行為そのものです。

まさに、タイトルの通り、答えのうちの一つはそこにあるわけです。タイトルからしてダブルスピークなんですね。その徹底したプロパガンダぶりに感心したことを付け加えてコメントを終了したいと思います。





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yuyawatase at 09:00|PermalinkComments(0)

2016年01月28日

「富豪62人の総資産、下位36億人分」は意味がない議論?

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「富豪62人の総資産、下位36億人分」というけれど・・・

国際支援団体オックスファムがダボス会議で、米経済誌フォーブスの世界長者番付など2015年のデータに基づいて世界の富豪上位62人が持つ資産が、世界の人口の貧困層下位半分(約36億人)の資産総額に等しいとする推計を発表しました。

同団体は裕福な人とその他の人々の差が拡大していることを懸念しており、世界の指導者に格差是正に取り組むように働きかけました、とのことです。

日本でも格差是正を求める一部の人々が上記の主張を引用して、政府による増税及び再分配を求める声が上がっています。しかし、これらの主張は経済活動を理解していないものであり、貧困解消に向けて的外れであるばかりか、むしろ貧困を悪化させる結果をもたらすものです。

「金持ち」の資産は「常に他人が使っている」という基本を知ることが大事
 
格差是正を訴える人々は金持ちの資産がタンス預金のような形で保管されていると勘違いしています。しかし、実際には、彼らの資産の大半は投資や貸付という形を通じて他者の手によって使用されています。それが資本主義の原理だからです。

そして、資本主義において重要なことは、金持ちとは資金の出し手であって現場における使用者ではないということです。彼らのお金は世界中で利益になること(≒社会全体の発展につながること)に利用されています。

これは私たちが銀行に少額の預金を行ったとしてもまったく同じことです。銀行にお金を預けた段階で預金者のお金は投資や貸付に利用されており、金持ちの資金と全く同じ原理で運用されています。

ちなみに、一度投資や貸付がなされると、資金の出し手は現場の使用者よりも資産の運用状況を正確に把握することはできません。そのため、資金の出し手よりも現場の使用者のほうが情報の非対称性から実際には強い立場を築くことができます。

この力のギャップを埋めるため、投資家が事実を正確に把握することを目的として簿記や会計の技術が発達してきたのです。上記の議論の意味が分からない人は簿記3級からやり直すことをお勧めします。

金持ちの資産は「金持ちが直接知りもしない赤の他人」が「自己の資産を増やすために使用」しており、結果として「金持ちの資産が増える」とともに「社会全体の発展」につながっているのです。

金持ちや権力者は「ファーストフード」を食べる必要がないということ

資産を誰が持っているかということはほとんど意味がない議論なのです。重要なことは世界に存在する富が人社会を発展させることに使われているか否かということなのです。

資本主義は「金持ち」=「権力者」のための制度として批判されています。しかし、実際には資本主義とは貧困層の生活環境を改善するための制度です。一体どういうことでしょうか?

権力者にとって自らの豊かな生活を実現するための選択肢は資本主義だけではありません。マリーアントワネットや金正恩のような資本主義を停止する形で武力を背景に人々を抑圧するほうが権力者による支配を永続するには便利です。

資本主義が健全に存在する前提となる「自由市場」では、社会に必要なサービスを提供している人が資産を手に入れて、僅かでも自己の資産を持つことができます。その結果として、上記の金正恩のような独裁者に反抗する力が国民に形成されるため、現代の圧制者は資本主義や自由市場が自国内に広まることを防止しています。

もっと身近な事例を取り上げるならば、富裕層はファーストフードを利用する必要はありません。ファーストフードが日本中に存在している理由は、普通の人にとって便利なサービスを作ることが金持ちの利益にもなる制度が存在しているからです。ファーストフードのような普通の人または貧しい人にとって便利な仕組みは資本主義が作り出しているものです。

世界の貧困国の大半は「資本主義」が機能していない地域であるということ

現代社会における貧困層の大半は、地球上の資本主義が機能していない地域、に存在しています。つまり、それらの地域の人々は、上記の資産の運用先になることができず、自らの価値が適切に評価されていない立場に置かれた状況にあります。

貧困地域では、政府関係者らの権力者が武力を背景として自らの利益を貪っているいため、同国の国民は何ら富を得ることができません。これらの地域の人々のために先進国は税金から多くの支援金を送ってきましたが、結果はオックスファムが述べている通り貧困地域の問題は解決することはありませんでした。

一方、不完全ながらも資本主義を導入した中国では沿岸部を中心に富裕層や中産層が誕生しました。また、東南アジア各国の給与水準も向上しつつあり、同地域における貧困問題は改善の兆しを見せつつあります。これらは資本主義と自由市場がもたらした成果です。

資本主義や自由市場を導入したとしても一直線に成長・発展するわけではありませんが、各国政府が腐敗した政府権力者を通じて資本主義・自由市場が働いていない地域に再分配を行うよりも中長期的に成果をあげることができます。むしろ、政府を通じた支援は一部の政府権力者を肥え太らせたことによって、真に日知ような資本主義・自由市場体制への移行スピードを落としているということも言えるのではないでしょうか。

世界の貧困問題を解決してきたのは「資本主義」と「自由市場」であるということ

世界の貧困問題を解決したいということであれば、無意味なストック(資産)の格差についての議論を行うのではなく、豊かな地域と貧しい地域の経済をどのように接続するべきか、ということを議論するべきだと思われます。

資本主義や自由市場にアクセスできていない地域の労働力は、利用不可能な資産、として扱われており、彼らへの富の継続的な移転が行われていません。これこそ貧困が固定化される原因であり、将来的に解決されていくべき問題なのです。

「富豪62人の総資産、下位36億人分」というセンセーショナルな議論に踊らされることなく、正しい政策を恐れることなく推進していくことが求められます。





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yuyawatase at 12:20|PermalinkComments(0)

2015年11月30日

舛添要一都知事は激高すべき、首都圏民3500万人の政治を

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「法人住民税1兆円を地方に再配分 29年度から、政府検討」
http://www.sankei.com/economy/news/151027/ecn1510270012-n1.html

という記事がちょっと前に報道されていました。都道府県別の1人当たりの法人住民税・事業税の25年度の税収を比較すると、最も少ない奈良県と、全国最多の東京都の格差は6・3倍に上るから、東京から税金を取り上げてしまおうという。。。

罰ゲーム化した都市部の努力への仕打ち

今回、中央政府が吸い上げようとしている税収は「法人住民税」です。つまり、ある地域に立地している企業が地方自治体に支払う法人税・地方税の一種類です。法人住民税を全体3兆円のうち1兆円も中央政府の気分で召し上げられるなら、もはや「地方税ではなく国税の間違い」だと思います。

収益力がある企業が誕生・集合することで法人住民税の金額は当然に増えていきます。都市部はあらゆる資源を活用してインフラ・人材を教育することで企業の成長を助ける努力をしています。その結果が東京を中心とした都市部の法人住民税の高さです。

その法人住民税を半ば国税扱いをして取り上げて地方に再配分する計画は「頑張った人に良く頑張ったね。でも君がやっていることは悪いことだから稼いだお金は取り上げます」ということと同義です。このような罰ゲームを導入することは人道的・経済的に許されることではありません。

継続不可能な地方交付税度を廃止することを議論すべき

このようなトンデモない政策が出てきた背景には、地方交付税、の仕組みが限界に近付いていることがあります。今回、政府は法人住民税を取り上げて地方交付税に充当しようとしています。

地方交付税の現状は「中央政府は既に単年度の支払いもできなくなっており、地方自治体に借金のツケ回しを奨励している」状態です。臨時財政対策債という名称で地方自治体で増え続けている地方債は中央政府が裏書保証した形になっている借金のことです。

つまり、今回の法人住民税の移転話は、中央政府が地方自治体に「実行不可能な地方交付税の支払い」を約束した帳尻を合わせるために、都市部に対して大型の地方交付税のための増税を実施するという話なのです。

私はかつて地方交付税の算出根拠について調べたこともありましたが、地方交付税の交付額の基準となっている基準財政需要額の算出方法の中には現代人の目から見て妥当とは言えないものもあります。

現在、議論されるべきことは、地方交付税の算出根拠などの制度の全面的な見直し、地方自治体による臨時財政対策債の発行に歯止めをかけることです。地方債を減らしたと豪語している大阪府ですら同債務が異常に増加していることに危機感を持つべきです。

世界はメガシティー同士の競争に移行しつつある

現在、人口1000万人以上のメガシティーは世界に34か所存在しており、これらの数は今後も飛躍的に増加していきます。2030年には世界の人口の60%は都市部に居住することになり、都市の競争力=国の競争力、という図式がより明確になっていきます。

このような状況の中で都市部から財源を取り上げて地方に再配分していく余裕は無くなりつつあります。むしろ、都市部から地方への移住を奨励するのではなく、首都圏などの都市部に日本国民が移住するように誘導していくことが望ましい政策です。

また、既に首都圏には約3500万人、日本の人口の4分の1が暮らしている状況があります。たとえば、東京から税金を取り上げて遠くの地方にばら撒くことは、人口全体25%首都圏住民の生活に影響を与えることになります。何よりも重要なことは東京の経済発展を促進し、都市部の規模を拡大して周辺も含めた経済浮揚を達成し続けることです。

都市部選出の国会議員も地方選出の国会議員も今後世界がどちらに向かっていくのか、日本全体の将来について責任ある議論をして頂きたいと思います。





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yuyawatase at 17:00|PermalinkComments(0)

2015年11月27日

大人の教科書(8)資本主義は貧乏な人のためにある

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自由市場や資本主義という言葉を聞いた時に、私たちが同時に耳にする言葉は「格差」「貧困」などの言葉です。長い間、机上の空論の世界では、自由市場・資本主義は不平等を増大させ、富裕層が貧困層を搾取するという神話が拡がってきました。しかし、本当にそうでしょうか。

富裕層にとって自由市場・資本主義は必要な制度ではない

現実は資本主義が繁栄を達成し、それに反対した社会主義・共産主義が貧困をもたらしました。私たちは現実の社会について学びを深める必要があります。
 
まず最初に私たちが知るべき衝撃的な真実は「真の富裕層は資本主義を必要としていない」ということです。従来まで資本主義は富裕層のためにあると信じ込まされてきた人は驚くかもしれません。しかし、少し考えれば、これが当たり前のことだと気が付きます。

人類社会では資本主義が始まる前から、王侯・貴族が当時の超富裕層として存在してきました。彼らは資本主義など無くても「政府の権力・暴力」を使って幾らでも贅沢な暮らしができました。彼らは自分自身が贅沢な暮らしを継続するために自由市場・資本主義を求める必要があったでしょうか?

現在でも独裁国のトップは政府の力を使って、彼が支配する貧困に喘ぐ庶民には到底不可能な暮らしを行っています。彼らが豊かな暮らしを行うためには、搾取対象である庶民から絞り上げれば良いだけであり、同時に庶民が抵抗力を持たないように生活環境が向上しないようにすることが重要です。

むしろ、昔ながらの伝統的な富裕層にとって、自由市場・資本主義は普及してもらっては困るものであり、どちらも存在しない方が安心して独裁制を敷くことが可能です。

貧しい人に便益をもたらした自由市場・資本主義のシステム

独裁者はスーパーやコンビニに行く必要もなければ居酒屋チェーンに行くこともありません。それらは全て庶民が暮らしの中で望んで創られたものだからです。現在、先進国においては貧しいとされる人でもコンビニエンスストアで買い物を行うことは可能であり、貧困層とされる人でも平気で携帯ゲームで遊んでいます。

このようなサービスを自由市場・資本主義が無い社会では富裕層以外の人が受けることはできません。

工業技術や機械技術の発展がもたらした恩恵は、富裕層にとっては相対的に意味がないことであり、自由市場・資本主義が整備したあらゆるインフラ・サービスは貧しい人・一般の人が受ける恩恵のほうがメリットが大きいのです。ちなみに、現在でも富裕層にとってはスーパーやコンビニなどは必要不可欠なものではありません。

社会に存在しているインフラ・サービスの大半を誰が利用して消費しているのかを見れば、それらのサービスが誰のためであるかは明らかだと思います。このような当たり前の事実を無視した議論は意味がありません。

世界で一番貧しい人はどこに行けば沢山見つけることができるのか

私たちが世界で一番貧しい人の集団を見つけたいのであれば、資本主義が機能していない国を訪ねてみれば良いだけのことです。その社会では私たちの社会では機会によって代替されているあらゆる重労働がいまだに人間の手で行われていることが発見できるはずです。

また、現代の社会主義・独裁主義国である北朝鮮の姿を見れば明らかであり、自由市場・資本主義が誰にとって恩恵があるものかということは一目瞭然です。

かつて世界は独裁者が支配する空間ばかりでしたが、独裁者同士が対立した結果として、相手よりも豊かな国力を備える必要がありました。そこで、導入された仕組みが自由市場・資本主義であり、それによって多くの人々が経済活動の恩恵を受けたのです。

私たちは現在を都合よく切り取って見せる似非有識者たちの言説ではなく、人類が歩んできた確かな歴史にもっと自信を持つべきです。

選択の自由[新装版]―自立社会への挑戦
ミルトン・フリードマン
日本経済新聞出版社
2012-06-26

 

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2015年11月18日

大人の教科書(2)「市場原理と拝金主義の違い」が分かりますか?

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巷のインテリ学者たちによって市場原理は拝金主義だと批判されています。しかし、このような論理の飛躍は実際に自分でビジネスをやったことが無い人々による勘違いから生まれるものです。そして、自らの手によるビジネス経験があれば市場原理と拝金主義の違いは実感を持って感じられます。

お金が継続的に儲かる=市場原理のプロセスとはどのようなものか

お金が継続的に儲かる状況になるために最も重要な要素は「信用」です。あの人に仕事を任せても大丈夫いう信用の積み重ねが継続的な売上・収入に繋がる源になります。

そして、ある人物や企業に対する「信用」はその人や企業の「慣習」や「風土」から生まれます。つまり、確かなサービスを適切な価格でタイムリーに提供することを常態化する必要があります。

市場原理とは、このお金が継続的に儲かるプロセス(①慣習・風土⇒②信用⇒③売上・収入)を意味しています。これは商いに従事したことがある人なら当たり前に理解できるプロセスです。このプロセスが回転していくことによって商売繁盛・社会繁栄がもたらされます。

市場原理と拝金主義の違いとは何か

市場原理と拝金主義の違いは上記のプロセスが回転するか否かの違いです。

拝金主義は、①慣習・風土⇒②信用⇒③売上・収入のうち、③売上・収入のみを重視する考え方や手法を採用することを指します。当然に、①慣習・風土と②信用を欠いたビジネスは継続性がなく一過性のビジネスということになります。

つまり、市場原理が継続的に発展するプロセスであるのに対し、拝金主義は市場原理のプロセスを断ち切る対極的なものであることが理解できます。

ちなみに、誰しもが弱い心を持っていますので、事業主であればこのような拝金主義のプロセスに陥った場合の苦い失敗の経験を持っているものです。そのため、市場原理と拝金主義が異なるモノであることは経験上理解しています。

市場原理とは極めて社会的な信用を重視したプロセスであり、社会的な信用を失った人や企業は市場原理の中では存続できません。

政府の政策は拝金主義にならざるを得ない

政府が実施する政策は、上記の市場原理のプロセスである、①慣習・風土⇒②信用⇒③売上・収入のうち、①慣習・風土と②信用に関係なく、政府が設定した特定の条件を持った人々に③売上・収入を与えるものです。

お金を支払う人と受け取る人の間に、信用を創造する機会は存在せず、政府という組織を仲介して所得移転・資源配分などの分配行為が実行されることになります。

政府の予算配分は政府に対する利益団体の交渉によって決定されるため、税金を支払った人が望むような使い方がされるかは保証されず、受け取る側も税金を支払った人の意向を軽視して補助金や助成金を受け取るために奔走します。

まさに、政府による分配行為による拝金主義であり、社会における信用を媒介とした市場原理とは対極にあるものということになります。

市場原理批判は市場原理を経験したことがない拝金主義者の見解

上記のように市場原理と拝金主義は全く異なるものであり、市場原理批判をしながら政府による拝金主義的な政策を推進する有識者っぽい方々が多すぎることに辟易します。

大学の先生や労働組合などの、まともに「市場」で働いたことが無く、なおかつ客観的に仕事が継続的に成り立つための条件すら想定できない拝金主義者が市場原理批判を行っているだけではないかと。

事業で成功して金持ちになるということは、市場原理に従って「自分や組織を律し、社会的信用を積み重ねて」ようやく到達できる境地なのです。そして、その過程で多くの人に社会的な利益がもたらされているのです。

市場とは何か、そこで何が行われているのか、ということについて学び、市場原理と拝金主義がどのように違うのかについて再度学んでほしいと思います。

アダム・スミス
岩波書店
1995-07




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yuyawatase at 12:00|PermalinkComments(0)