新自由主義批判

2015年12月25日

大人の教科書(21)「新自由主義批判」という様式美

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新自由主義を批判する人々に共通する様式美について

押しかけシンクタンクなるものが出来たというので、どんなものかなと思っていたら、

という記事を発見しました。この記事中で、大学の先生が、

「本来、左派やリベラルというのは、豊かで幸福な社会を作るためにあるもの」と述べ、「いま世界を席巻しているアメリカ型の新自由主義に対抗できる距離感は必要だと感じるが、経済成長を真っ向から否定するわけではない」

と発言されていましたが、「アメリカ型の新自由主義」って本当に分かっているのか、と言いたくなります。

まあ、「新自由主義批判」って「知識人の様式美」の世界の言葉

であり、このように発言することで、

「一般人よりも自分は思想知ってます」的なオーラを纏って普通の人に「お、おう、そうなんだ」って思わせる

にはもってこいなんですよね。本当に辟易するなあと。

ところで、「アメリカ型の新自由主義」に対抗したいんだったら、「現在の自民党」の政策でも十分に機能しています。そして、日本政府はアメリカ型の新自由主義に(悪い意味で)十分対抗できる能力を持っているので、毎年の日本の経済成長率は微々たるものに留まっています。現状以上に新自由主義に対抗したいなら、ソ連の復活でも頑張ってほしいものです。

思考停止した型にはまった議論を好む大学関係者たちの頭の中

日本で大学研究者として出世していくために求められることは、とりあえず「新自由主義を批判する」ことであるといっても過言ではありません。新自由主義批判が求められる理由は主に知識人が持つ2つの思考様式に根差しています。

1つ目は、知識によって社会がデザインできると思っているということです。元々自分たちの頭でご飯を食べてきた人たちなので、彼らは自分たちが社会をデザインできる能力があると思っています。

少なくとも自分の専門分野においては当然であり、大衆の自由から生まれる知性が自分の知性を優越していると思ったことがありません。そのため、大衆の経済的・政治的自由を重視する新自由主義には批判的になります。

2つ目は、新自由主義を批判する、という思考的な様式美を直輸入しているからです。つまり、自分たちの目の前に起きていることを問題にせず、書物の中で描かれた概念を輸入して日本でも起きている真実として捉えています。

その結果として、現在の安倍政権が「新自由主義」(小さな政府、減税、規制緩和)を推進していないことは誰でも検証できますが、世界中で「保守政権」を名乗る政党を「新自由主義」として叩いてるため、日本でも一緒になって何も考えずに保守政党=親米=新自由主義として叩いているのです。 

以上のことから、大学研究者の頭の中では、自分は大衆を優越している知性を持っており、その自分が、保守政党=親米=新自由主義、を批判しているのだから正しい、ということになるわけです。

日本は「米国型新自由主義」ではなく「中国型縁故資本主義」の進化形である

現在の自民党が作り上げている政治経済のかたちは「アメリカ型の新自由主義」ではなく「中国型縁故資本主義」です。

仮に上記の大学研究者らが批判するアメリカ型の新自由主義政策が実行されているなら、経済的競争力が劣る「日本の地方」はとっくの昔に消滅してほぼ誰も住まなくなっているでしょう。旧態依然とした産業は残っておらず、新分野で発展してきた新興企業が多くの雇用を創り出しており、その中から世界で活躍するグローバル企業も生まれています。

しかし、現実には日本の地方は生き残っており、中央の大企業と結託しながら地元土豪が地域支配を確立しています。これらの大半は政府による予算・規制による保護で成り立っており、そこに自由主義経済の息吹はありません。このような姿は「新自由主義」ではなく「縁故資本主義」の典型です。

また、大企業への予算・規制を維持しながら、労働市場の規制緩和のみを進める手法は、旧態依然とした産業構造を維持するためには最適な政策(しかし、いずれは産業自体の競争力が失われる)です。そして、このような一部の大企業と政府が癒着した姿も縁故資本主義の特徴ということになります。

つまり、中国共産党が実行している改革開放政策を最低限の社会保障とコンプライアンスが整う形に仕立てて、もう少し上品にお化粧した姿が現在の日本の真の姿なのです。日本の政治経済の現状をアメリカ型の新自由主義ということには無理があります。

日本の格差が問題であると定義するのであれば、それは政府との癒着によって生まれる縁故資本主義による格差を問題にするべきであり、自由市場における格差を問題にすることは現状認識に誤りがあります。

縁故資本主義と新自由主義の考え方は対極に位置する、新自由主義批判は問題解決にならない

新自由主義とは、これらの政府と特定企業・団体の癒着を断ち切り、自由市場の中でサービスが提供されていくことを是とする思想なので縁故資本主義とは真正面からぶつかる思想です。

そして、新自由主義を批判するということは、政府が何らかの企業・団体と手を結んで公共サービスを提供していくことを意味しており、現在の日本の問題である「縁故資本主義」を解決する手段を提供するものではありません。

ところが、上記の学者らは、日本で新自由主義政策が実行されていると思い込んでおり、縁故資本主義によって生じている弊害を助長する政策を提言しようとしています。知識人の様式美を現実世界に適用しようとすることは誤りであり、事態を悪い方向に進める非常に危険なことなのです。

まずは、日本は新自由主義とはかけ離れた状態であることを共通の認識し、その上でどこに向かうべきなのか、という議論を行っていく必要があります。








 

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2015年12月11日

大人の教科書(15)日本一分かりやすいポリティカル・コンパス解説

<図表1:政治的立ち位置の4分類>
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本日の大人の教科書は自分が政治学上、どの位置に属するかを分かりやすく解説を行います。

まず図表1の政治的立ち位置の4分類を見てください。世の中には様々な政治的な考え方を持った人々がいますが、大きく分けると4つのカテゴリーに人々を分類することが可能です。政治思想を分ける軸は「政府」が経済や思想についてどこまで干渉するかを許すか、という点によって分類できます。

(1)経済的自由度とは、政府による税金や規制から民間企業などがどの程度自由な状況にあるか
(2)思想的自由度とは、政府による表現規制などの思想統制から人々がどの程度自由な状況にあるか

ということです。この2つの指標の自由に関する指標の大小によって4種類に人々を分類できます。

(1)経済的自由大・思想的自由大=自由主義=ホリエモン、完全な自由人
(2)経済的自由大・思想的自由小=新保守主義=サッチャー、愛国的なベンチャー経営者など
(3)経済的自由小・思想的自由大=社会民主主義=ピケティ、左派系の経済・社会学者など
(4)経済的自由小・思想的自由小=全体主義=岸信介、革新官僚、ナチス・ソ連、ネトウヨ、地方の土豪など

<図表2:全体主義から新保守主義への移行と移行過程の弊害>
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さて、上記の4分類までは一般的な分類となっていますが、現代社会においては更に踏み込んだところまで、解説していかねば自分の立ち位置が分かりません。なぜなら、左右の識者がいい加減な話をして一般の国民を煙に巻く議論をしているからです。

20世紀に全世界を覆った全体主義(ナチス)、そしてその後のソ連の共産主義は人々の経済・思想を抑圧した体制でした。それらに対抗するために、西側各国も自由や資本主義を標榜していたものの、彼らに限りなく近い体制(国有化など)を実行し、政府の経済面・思想面での介入を許してきました。自民党のような資本主義を維持したバラマキと愛国とナチスやソ連とのやり方の差は程度問題だったと言えます。

しかし、西側各国の経済停滞、そしてソ連の崩壊が見えてきたところで、多くの西側諸国は「全体主義」から「新保守主義」に舵を切ることになります。(図表2)国有化された資産が民営化されることになり、それと同時に愛国思想が鼓舞されることになりました。これがサッチャー、レーガン、中曽根時代から現代に至るまでの状況です。

このプロセスの中で元々国有資産または規制対象であった商品・サービスが民営化・規制緩和されたことで、多くの政府と密接な関係にある経営者が民間人として自己のビジネスを拡大しました。

事例を挙げると、

(1)中国:鄧小平以来の改革開放によって、全体主義から新保守主義への移行プロセスで、中国共産党幹部が立場を生かして民間市場での不当な利権を確保したこと。

(2)米国:金融危機などで巨額の報酬を受け取っていた経営者らの責任を問わず、金融機関・大企業の債務を国民の税金を埋め合わせたこと。

(3)日本:政府の規制介入で守られていた雇用の規制緩和によって巨大な派遣利権を発生させて、雇用の規制緩和を推進した本人が現在最大手の派遣会社の会長に就任していること

など、これらは新保守主義ではなく、縁故資本主義と呼ばれるものであり、全体主義から新保守主義に移行するプロセスで生じる権力者への代替利権の提供として姿を現します。

<図表3:縁故資本主義に対する的外れの新自由主義批判が生じている状況>
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これらの移行過程で生じた利権を槍玉に挙げて、各国では新保守主義批判が展開されています。日本においては、新保守主義という名称ではなく、新自由主義とかネオリベとか呼ばれる傾向があります。

しかし、彼らが批判している対象は実は、経済の自由化が不徹底な状態で発生している縁故資本主義的な状態であり、経済的な自由化が進んだ状況を正しく認識していないことが多い状況です。

たとえば、「規制緩和や税制改革は大企業にばかり有利だ!」というような批判は本質的には大体的外れです。むしろ、大企業の規制・税制などの利権が守られたままの状態で、中小企業・労働者のほうだけ大企業による新規参入や実質的な税負担増という競走上不利な立場に立たされていることが問題です。

一方、大企業の利権を守る規制が緩和されることは、新規参入機会が生まれる中小企業や新しい雇用の場ができる労働者にとっては有利なことであり、本来であれば積極的に推進するべきことなのですが、現実には分厚い利権体制によってそれらは守られています。原発事故のような大災害が起こらなければ電力自由化などは永遠に進まなかったはずです。

そのため、完全な自由化ではなく縁故資本主義的な状況を指して、左上の社会民主主義や左下の全体主義に持っていこうとしている御用学者や利権解体の危機に瀕している既得権者が新自由主義批判を展開しています。これが現在の日本における政治的な論説の基本的な構造となります。

ちなみに、鄧小平以後の改革開放論を標榜する新自由主義者に対して、中国でも新左派と呼ばれる政府経済介入派が登場して中国共産党が担う政府機能の強化を主張していたりもします。その結果として何が起きるかは図表4以降の説明を読んでください。

<図表4:社会民主主義者は全体主義者に最終的には戻っていくということ>
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さて、現代の政治的な言論空間における基本的な構造をおさらいしたところで、この後に日本がどちらに向かっていくべきかについても述べておきたいと思います。(図表4)

まずは、縁故資本主義を乗り越えて新保守主義の段階までしっかりと至ることが重要です。現状は自由化・民営化しているように見せかけて、部分的な緩和によって生じた市場の歪みを一部の人々が搾取している状況にあります。このような歪みが生じないように真の意味での全面的な規制緩和や減税政策を断行するべきでしょう。

その上で可能であれば右上の自由主義への道が開かれていくことが理想ですが、それは現実の政治問題として極めて難しい状況かもしれません。また、全体主義体制下でいきなり自由主義を標榜するとホリエモンのように刑務所に入れられたりしますので、最初は折り合いをつけて新保守主義程度の塩梅から入っていくのが良いでしょう。

そのプロセスの中で、新自由主義批判の甘い誘惑に乗らないことが重要です。なぜなら、社会民主主義と全体主義は実態としては同じものだからです。自分の生活に関する稼ぎなどを政府に依存するようになった社会では、あなたは政府からの思想統制を逃れることはできません。仮に自分は思想統制から逃れられるというのであれば、それはメルヘンの世界への逃亡であって現実のものではありません。

以上、代表的な4分類と現在の日本における政治的な言論空間の構造について解説しました。左右の識者とされる人々の言説に惑わされることなく、国民にはしっかりとした自己認識を持ってほしいと思います。





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yuyawatase at 18:00|PermalinkComments(0)