文春
2016年07月21日
鳥越俊太郎氏が「焼き鳥」になった日
(文春砲が炸裂、ただしイマイチ生煮え感が拭えないが・・・)
鳥越俊太郎氏に文春砲が炸裂、橋下氏ら過去に揶揄した人物に反撃されて炎上中
選挙期間中に週刊誌が第三者の証言を基にすっぱ抜き記事をデカデカと載せてきました。
筆者は政治家は第三者でも検証できる内容(統計、公文書、メディア発言等)で追及されるべきだと考えています。したがって、週刊文春の報道内容は信憑性も含めてあまり褒められたものではないと感じています。
しかし、一度燃え広がった炎はなかなか消えないものです。
橋下徹氏など従来まで鳥越氏らのマスメディアと侃侃諤諤してきた方々から意趣返しとして、「今回の文春なんてチョロい記事。ちゃんと釈明しなさい」と逆に言われている始末です。
鳥越氏は過去に橋下氏の出自に関する報道で「週刊誌はきわどいことを狙う以上は覚悟を決めてやるものだ。問題を指摘されたから連載を打ち切るというのは腑に落ちない。朝日本体からプレッシャーもあったんだろうが、よくやるなと思っていたのに、がっかりした」(週刊朝日2012年10月)と自論を展開しており、直ぐに訴訟対応の準備に入った今回の対応との整合性が問われる状況となっています。
たしかに、今回の文春報道は、かなり具体性があるので事実なら言い逃れは困難ですが、被害女性の夫とされる人物の伝聞情報で構成されているため、鳥越氏が事実無根の可能性も十分にあり得ると思います。
しかし、鳥越氏も本当に事実無根なら「記事のどこが事実と異なるのか」を検証記事にし、鳥越氏自身のHP上や他紙に発表するなりしたほうが良いでしょう。文春は無理でも他雑誌なら今なら喜んで記事掲載してくれるものと思います。
今回否定していない他の週刊誌報道の不倫報道はどうなのかも含めて、ジャーナリスト出身の都知事選挙の候補者として詳細な検証記事での反論を有権者は待っています。
不倫問題で辞職した「育休」宮崎謙介元議員を「表舞台では先進的なことを言っているように見せかけて、何でこんなことを平気でできるのか、まったくわからない。政治家以前に、人間としてまさに“ゲスの極み”ですね」(週刊女性2016年2月)と罵倒していた以上、自らが資質を問われる状況となっているからです。
現在の生煮え感が漂う状況で期日前投票が始まっている東京都民の気持ちになってほしいものです。
日本の政治ジャーナリズムもそろそろ変わるべき時が来ているのではないか?
少し前からネット上では「官邸が鳥越氏の女性問題を調べさせている」という噂が流れていたこともあってなのか、鳥越氏は民進党会議で「何か政治的な力が働いた」と明言していますが、かつて政権党であった民進党の公式な見解として同発言を認めるのでしょうか。
そのような陰謀論は有権者にとってどうでも良い話であり、この状況下で陰謀論を堂々と語る人物の政治家としての資質を疑わざるを得ません。週刊誌はその記事が儲かるから書いているだけのことで、その記事が売れないなら記事にしないことでしょう。
いずれにせよ、今回のように第三者によって検証不可能なくだらないゴシップについては、選挙期間中に当事者が詳細な釈明を提示してさっさとケリをつける類の話です。有権者は限られた時間内に投票のための意思決定を行う必要があり、東京都民の投票対象となる候補者として当然の務めだと思います。
文春側も選挙期間中に第三者が検証不能な記事を掲載することは健全な政治文化を育てる上で極めて問題があるものと思います。筆者は日本の政治報道・選挙報道もそろそろ変わっていくべきだと考えます。
日本の政治・選挙報道も「エビデンスに基づいて『政治家』『ジャーナリスト』としての資質を厳しく問う」という民主主義の文化を育てる方向に舵を切るべきです。
鳥越氏については上記の発言なども含めてジャーナリストとして資質を問われる発言をされてきた方です。その内容について子細に検討されることで、都知事として相応しいのか、ということを多くの人から検討されるべき人物だと思います。
また、選挙は候補者の心技体の一つ一つの要素が検証されるプロセスです。特に今回は鳥越氏の健康問題に関する懸念は何度もメディアで取り上げられていることもあり、筆者は女性問題疑惑以前に自分自身の健康状態を証明するために医師の診断書の提出などを行うことが重要だと思います。
今回、鳥越氏という候補者が週刊誌の女性問題疑惑報道によって「丸焼き」にされたことは一都民として非常に残念です。本来であれば客観的なエビデンスに基づいて「黒焦げ」になるまで各候補者が試練にさらされることが望まれます。
なぜ、今回の東京都知事選挙ではスキャンダル報道が重要になっているのか?
では、なぜ鳥越氏のように女性問題疑惑が話題を呼んで炎上し続ける状況は起きるのでしょうか?政府の陰謀やら、人々の性の問題やら、敵対陣営の口コミと言ってしまえばそれまでですが、筆者は大きな理由として「政策論争が行われていないこと」が挙げられると考えています。
たとえば、鳥越氏が立候補に先立つ記者会見の段階で何ら都政に関する政策を準備していなかったことは余りにも象徴的な出来事でした。候補者が政策を語ることが出来ない場合、その候補者の「人物」を見るという流れに行くことは必然的なものです。多くの都民から思い付きと捉えられた「がん検診100%」という政策のみで真面目な政策論争をしろ、というのは都民の知性に対する冒涜です。
まして、舛添知事が「人物」の問題で辞任した後の都知事選挙に関して脛に傷がある可能性を持つ人物が「政策を何も掲げずに選挙に出る行為」は自殺行為に等しいものと思います。
残念ながら今回の東京都知事選挙では鳥越氏が文春砲の犠牲となりましたが、自分自身の大義を守れる価値がある政策プログラムが発表されていない状態では殴られ放題のままになるでしょう。
蛇足ですが、政策論争が行われないもう一つの大きな理由は、都議会議員各会派が何ら自分たちの政策を示さないからです。議員報酬と政務活動費で年間2000万円以上を受け取りながら、都知事選挙に対して自分たちの包括的な政策集を提示して推薦候補者を支援することは当たり前じゃないかと思います。働かない都議会議員に税金を支払う意味があると思えません。
候補者にとって理念がある確固たる政策集を発表していることは、苦難の時に攻めにも守りにも使える重要なセーフティーネットに成りえます。今回、「鳥越氏には政策が無かった」、そのことが現在の炎上が止まらない原因の一つだと思います。
本記事の内容は所属機関とは関係なく渡瀬個人の見識に基づくものです。取材依頼や講演依頼などはyuya.watase02@gmail.comまでお願いします。
yuyawatase at 13:01|Permalink│Comments(0)
2016年05月14日
舛添知事の温泉旅行を合法にする方法
東映アニメーションから引用
舛添知事の「家族との温泉旅行」を合法的な活動にする方法
「政治資金規正法」の目的は、「政治活動の公明と公正を確保し、もつて民主政治の健全な発達に寄与すること」と定められています。しかし、実際のところ、「政治活動とは何か」ということ、については、何ら明らかにされているわけではなく、極めて恣意的な解釈が可能になっています。
今回の温泉問題は「家族との温泉旅行」を「会議費」としていたことが追及されていますが、実際のところ「会議費」の定義すら曖昧なわけですから、「殺ろうと思えば何でも殺れる」法律が政治資金規正法だということです。
たとえば、今回のケースで言えば記載内容を「親族懇談会」にすれば政治資金規正法上はOKなわけです。後援会の幹部などは家族や親族が務めているケースも多く、それらの人々と正月早々出かけた場合はどうなるのか?など、この法律の運用について議論することが不毛極まりないと思います。
「もう次の東京都知事は一休さんで良いよ」と思う記者会見
上記の通り、政治資金規正法とは「トンチ」のゲームみたいなものなので、「政治資金規正法」に強いことが東京都知事の条件になるなら「一休さん」を都知事にしたら良いと思います。
舛添知事の子どもとの温泉旅行は「自分は大臣経験者・現職東京都知事の貴族階級であるから、子どもに世襲させるために正月早々温泉で帝王学のレクチャーを行ったのである」的な話なら普通に政治活動になるわけです。道義上の責任はともかく、家族だけの旅行であったとしても十分に会議として成立しています
舛添知事の政治団体の政治活動なので、「何が政治活動なのか」を決める人物は舛添知事しかいないわけですから、世間に迎合せずに貴族として堂々と振舞えばそれで良かったわけです。下手にお茶の間について配慮するから「会議には家族と別の人もいた」みたいな言い訳になるのです。
政治資金規正法上の違法性の責任を問われるのか、それとも政治家としての道義上の責任を問われるのか、はともかく、一休さんなら政治資金規正法上の違法性の責任は確実に免れるでしょう。
政治資金規正法の「虚偽記載」という民主主義の自殺装置について
さて、上記の通り、政治資金規正法の「虚偽記載」の罪がくだらないものだと分かったと思います。
どれほど有力な政治家であったとしても、陸山会事件のように「ほぼ何もないところから罪を作る」ことを可能にする同罪は、まさに民主主義の自殺装置であると言えるでしょう。
なんせ政治家を葬りたいと思ったら、政治活動の解釈が問われる項目を見つけて難癖をつければ良いだけにですから簡単です。選挙という事前審査で敗北した陣営は当選した人物の政治資金報告書を調べ直すだけで選挙を無かったことにできるのです。
元々は今回のようにくだらないことに税金を使っていたら、何かの拍子で疑惑が発覚した場合、その政治団体に資金が集まらなくなるだけの話でした。舛添知事のようなケースは、本来であれば政治資金マーケットという市場が淘汰するべきものだと思います。
しかし、国民の血税である政党助成金が政治団体の運用に使用されていることで、本来の簡単な話の筋が違ってきてしまっています。要は本来は「恣意的にしか決めることができない」政治活動の定義に「社会的な制裁」を加えることができるようになっています。これは民主主義を継続するにあたって由々しき問題だと言えます。
「何が政治活動か」ということは定義がないため、今後も「虚偽記載が問題になる」事例が頻発するでしょうから、それによって民主主義は「小さな善意」の積み重ねで自殺していくことになるでしょう。
筆者は「政党助成金を廃止して」「ダメな政治家は」「政治資金マーケットで」「自然淘汰されるべき」だと思います。
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yuyawatase at 16:33|Permalink│Comments(0)