政治家

2016年07月22日

超高齢化社会で政治家が二枚舌になる理由

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何故、政治家の言動の「二重基準」が横行してしまうのか?

インターネットが普及して政治家やジャーナリストの過去と現在の言動の整合性が簡単に取れる時代になりました。そのため、その場しのぎのポリティカルコレクトネス(政治的に正しい発言)を繰り返してきた、ポリコレ人間が政治家を続けることは極めて困難な状況になってきています。

筆者は上記のようなネット社会の進展とともに、超高齢化社会も政治家の言動の二重基準が発覚する原因だと思っています。

人生は非常に複雑怪奇であって誰もが聖人君主のような生活を送れるわけではありません。したがって、叩けばホコリが出ない人物など一人もいないと思います。

しかし、超高齢化社会では「政治家が極めて長期間在職することが可能になる」、または「著名な有識者とされている人の賞味期限が長くなる」という現象が起きてきます。これらの人々も若い頃は純粋な気持ちで活動していたかもしれませんが、酸いも甘いも知る大人になるプロセスで様々な誘惑にさらされることになります。

そして、彼らが高齢者の年齢に達する頃には何らかの人生の失敗を抱えることになるのは当然なのです。しかし、問題は超高齢化社会においては「高齢」の域に達したとしても、現役と同じように「社会的・政治的に正しい発言を求め続けられるようになる」ということです。人生はそんな単純じゃないよーと腹で思っていても、表では清廉潔白な人物を演じ続ける必要があります。

これはある意味拷問のような作業ですが、若い頃にそれで飯を食べてきた人が高齢になった場合に今更止められるわけもありません。ご愁傷さまとしか言いようが無いのですが、それこそ自己責任ということですね。

そのため、自分の人生を振り返れば自分自身の過去に刺さってしまうような発言であったとしても、相変わらず表舞台で発言を続ける必要があり、その人物が「公人」として活動しようものなら一気に自己矛盾が表出化することになります。

政治家の「期間制限」を社会的に導入していく取り組みが必要である

公人、つまり政治家の過去の発言との整合性が簡単に取れてしまうことは、有権者にとっても良い面と悪い面があります。

良い面は言動の整合性がある信頼できる人物を選べるようになるということ、悪い面は投票で選ばれたはずの政治家が言動の二重基準を突かれて簡単に辞任するようになること、です。悪い面は良い面の裏返しと考えることもできるのですが、せっかく選んだ人間にコロコロ辞められても有権者も困ってしまいます。

そこで、最低限のこととして、政治家が多選を繰り返して長期間の在職が出来ない文化を作っていくことが必要だと思います。超高齢化社会では、政治家が何十年も議席にしがみ付くことが常態化して腐敗が生まれるとともに、当人の人生や社会の進展に合わせて言動に矛盾が生まれてしまうからです。

米国においては、The Term Limitsと呼ばれる草の根団体が存在しています。同団体は議員の多選による腐敗の蔓延を防止するための措置として始まった市民運動です。「政治屋ではなく市民のリーダーを!」が彼らのキャッチフレーズです。

具体的には議会議員選挙に出馬する候補者に最長2期で辞任することを署名で約束させて、WEBでその模様を公開するということが行われています。政治家自らから在職期間についての言質を取ることを通じて有権者との間で約束事を決めるのです。

一方、見方によってはThe Term Limitsは腐敗に塗れて何期もやりたいという議員を除けば、議員から見ても8年以内に議員を公に辞める口実を作ってくれる都合が良い仕組みとなっています。つまり、政治家にとっても職を辞めるタイミングを逸して延々と自己矛盾を抱えながら生活していく辛い人生から解放してくれるメリットがあるわけです。

首長などでも多選自粛を口にする人々がいても、日本では平気で約束を破る人も多い悲しい現状がありますが、米国ではこの約束を違えると同取り組みを信頼している人々からの支持が失われた上にネガキャンなどの社会的制裁が下されることになります。

そもそも政治家は若い人がやっていく仕事になるかもしれない?

情報化社会は過去の言動のログを簡単に取ることができること、そして人間は聖人君子のような暮らしを続けることは極めて難しいことを考えると、これからの高齢政治家は極めて難しい立場に置かれることになっていくでしょう。

少し前までならインターネットで過去ログも溜まっていないので、高齢政治家も過去の発言との整合性をしつこく問われることはありませんでした。自分の過去を棚に上げて言いたい放題していても、過去との矛盾を突かれて老醜をさらすことはなかったのです。

しかし、現代社会で活躍してる人々は既に過去ログの山を公文書その他を問わず積み上げている現状です。この人たちが高齢者になったあとに選挙に出よう・政治家を続けようと思っても過去の言動の記録がそれを許さないケースが増えると思います。

そのため、政治家という極めてクリーンさが求められる仕事に関しては、薄汚れた要素が相対的に少なく、二重基準で攻撃されにくい若い人が担っていくことになるかもしれません。もちろん本人次第のところがあるので不倫育休議員のようにあっさりと二重基準でペケがつく人もいるわけですが・・・。

いずれにせよ、政治家がどのような人物になるべきか、ということについて、候補者本人や政党が勝手に決めて有権者に提示する流れではなく、もう少し社会の側からコントロールできるようにしていかなくては、現在の不安定な政治状況は改善されることは無いでしょう。

政治家を批判することは当然のこととして、私たち自身の政治へのアプローチも変えていくことが必要です。

老醜の記 (文春文庫)
勝目 梓
文藝春秋
2010-02-10




本記事の内容は所属機関とは関係なく渡瀬個人の見識に基づくものです。取材依頼や講演依頼などはyuya.watase02@gmail.comまでお願いします。


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2015年12月27日

大人の教科書(22)政治家はロボットで代替可能か?

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議員の能力の大半は「有権者」の顔と会話の内容を記憶すること

議員の仕事の大半は選挙に受かるための肉体・精神ともにすり減らしながら行う「営業系」の仕事です。有権者の顔を記憶し、誰の紹介で、何の会話をしたのかを正確に覚える仕事といっても過言ではありません。

政治家の名簿記録には、名前、顔写真、住所、家族構成、出身校、所属企業、所属団体、その他諸々、あらゆる情報が記録・整理されており、有権者との円滑なコミュニケーションを実現することに全力が注がれています。そして、最後にあった時から時間が経ち過ぎないよう、地元回りで票田のメンテナンスが実行されています。

現在の人間に投票するしかない仕組みであれば仕方がないですが、この仕事は「人工知能搭載型のロボット」でも十分に可能です。むしろ、瞳紋記録などで全ての情報を紐づけたほうが正確な会話もできますし、陳情処理なども面倒くさがらずに確実にこなすことができます。もうそういう仕事は、それで良くないですか、としみじみ思います。

議会での質疑応答もロボットが行ったほうが正確な対応が可能


更に議会質問についても質問する側も答える側も完全にコンピューターで何の問題もありません。むしろ、事前の質問取りなどの無駄な作業も消滅し、最新のデータを両者がオープンデータとして接続して、タイムリーに正確な情報でやり取りすることが可能です。

「その質問は事前の通告になかったので答えられません」というような不毛なやり取りも消滅し、なおかつ財政データなどについてもイチイチ議員が勉強する必要もなく、確実な将来予測のシミュレーションを基に合理的な政策が立案できます。正直言って、普通の議員よりもIBMが開発したワトソンのほうが遥かに優秀です。
 
中途半端に立法事務費や政務活動費などを支出するくらいなら、まとめて人工知能の開発に費用を注いだほうが余程クオリティーの高い議会運営が可能となるでしょう。

人間にしかできない「議員」としての仕事とは何か

そこで、人間にしかできない仕事について話したいと思うのですが、それは「自由を守る」こと以外には存在しません。

ロボットに任せた場合は最初に設定した幸福の定義に基づく目標を達成するために、人間はロボットが設計した人生を正確に歩むことが求められるようになります。全ての社会システムはロボットによって設計されたものになり、人間は主体ではなく客体としてそれらを受容するだけの存在になるのです。

政府が合理的に社会を設計するとはそういうことを意味しており、政府による人間の家畜化こそがその本質と言えるでしょう。そして、これはロボットがシミュレーションしなくてもロボットよりも質が劣る人間が運営する政府も同一の方向性を有しています。

両親が子どもを生むための環境、生まれた子供が育てられるプロセス、その後結婚して子どもを生みつつ、老齢を迎えたら介護と医療を受けて死んでいく、ところまで、人生のほぼ全てが事前に制度として設計されています。自分の人生の在り方を客観的にみれば、自分が置かれている状況について気が付くと思います。

そして、ロボットよりも能力が低い人間が担う政府の下にあるからこそ人々に一定の自由が残っているに過ぎないことを知るべきです。従って、政府の仕組みが合理的でないから充実・強化して合理的にしようというのは、上記のロボットが決める社会制度に近づけようという議論でしかなく、人生に自由があることを大事だと思うならば決定的な愚かな行為であることが明らかです。

そのため、私は政府に力を与える増税・規制強化を求める人々を倒し、人間の自由を確保していくことが大事であると主張しています。上記のたとえ話で、政治家に必要なことは何か、ということについて、文章を読んだ方に少しでも伝われば幸いです。

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野沢雅子
TOEI COMPANY,LTD.(TOE)(D)
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yuyawatase at 09:00|PermalinkComments(0)

2015年12月15日

大人の教科書(18)全ての政治家は思想家の道具でしかない


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全ての政治家は特定の思想家の道具に過ぎないということ

最近の風潮として現場に立たない学者などが現実の政治実務に関わる首長・議員らに意見を述べることについて、不寛容な政治家が増えてきた気がしています。

その要因として、現在の政治がそれだけ予算その他の面で一杯一杯なこと、政治家に寛容に受け止めるような精神的・時間的な余裕がないこと、批判する学者らの能力が著しく低すぎること、などの色々なことが挙げられます。

しかし、政治家が何かを実際に実行しようとするとき、思想家の影響から逃れることはできず、どのような権力者であったとしても、過去または現在の思想家の道具に過ぎないのです。

そのことを知っているために、思想家は言葉を紡ぐことは辞めないでしょうし、政治家はその影響による呪縛から抜け出すことはできません。

政治家の価値判断の基準は、思想家の価値判断に依存している

政治家が何かを実行しようとするときには、何らかの政治的な価値観が必要となります。その価値判断の良い・悪いの基本的な部分を生み出しているのが思想家です。

政府規模の大小、政策の実行手段、話す言葉のイデオロギーのすべてが過去の思想家が考案したものを自覚的・無自覚的に採用しているのであり、そこからはみ出たことを実行することはできません。

たとえ政治家がモノを知らない人物であったとしても、過去と現在の思想家とその思想の影響下から逃れることはできず、むしろ特定の思想家の体系だった思考形式ではなく、あちからこちらの思想家からつまみ食いした政策が実行されていくことになるでしょう。

思想家の価値判断を踏まえずに、現場の改善作業が行き着く先はどこか

思想家が述べるような空理空論よりも、自分は現場の政策を少しでもマシなものにしていくために頑張っている、と述べる政治家もいます。実際の問題として、自分が何をしゃべっているのか分からない大学の名誉教授のような人々も多くいますので、これらの意見は一定の説得力を持ちます。

しかし、このような現場の改善作業自体の一つ一つを実行していくとき、個別の良し・悪しの判断はやはり過去・現在の思想家の影響を受けているわけです。そして、それらの部分改善は体系だった思想に基礎づけられていないために、チグハグなパッチワークのようなものになっていきます。

その結果として生まれるものは、全ての人々を満足させるべく、全てのことを実行する政府に他なりません。予算制約などの技術的な問題は実務的に解決できるため、それらが同時に全て実行されたときに起きる自由喪失の悲劇を看過するのであれば、政策の部分改善の積み上げはどこまでも実行可能です。

政治家のための思想家が必要とされるときに何が起きているのか

逆に政治家が思想家を道具として使うことによって何が起きるのでしょうか。

政治家は自らの権力追求を絶対善とする人々です。むしろ、政治家本来の思想とはこの一点に集約するといっても過言ではありません。

政治家に人間としての良心の呵責を期待することは間違いです。なぜなら、政治家は(特に議会議員)は立法府という人格性の無い組織の一部であり、自らの選挙における勝利によって権力を掌握して自らの再生産を実行できる存在だからです。その人物個人は何らかの政策判断に同情的であったとしても、彼らは立法府の組織の一部として議場に立っている存在に過ぎないのです。

その政治家が自らの役に立つ思想家のみを求めることは、非常に大きなリスクを孕んだことだと言えるでしょう。
彼らは自らの権力強化を可能とする政策実行に役立たないものを非現実・非道徳的として切り捨てます。その際に、目障りな思想及び言論について規制をかけることも可能です。

それらを防止するために、憲法で言論の自由が確保されており、非常に明察な思想家から愚かな思想家まで自由に意見を交わす形が整えられています。私たち有権者が理解して言論の自由・思想の自由があることの意味を見つめ直すべきでしょう。








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yuyawatase at 07:00|PermalinkComments(0)

2015年11月22日

大人の教科書(5)政治屋、政治家、慈善家の違い

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「あいつは政治屋だ」とか、「彼は政治家を目指している」とか、「彼女は立派な慈善家だ」とか、色々な言葉が使われることが多い議員の人物評価ですが、政治家・政治屋・慈善家の見分け方について基準のようなものが必要だと思っています。

そこで、今回は身近な「もっと保育園が必要だ」という社会問題に対する態度で三者の違いを説明したいと思います。

(1)政治屋の場合

政治屋の基本的な発想は「税金を使って保育園を建てる」というものです。保育園を全額税金で建てるのか、補助金を使って建てるのか、様々な方法はありますが、人々から集めた税金を自分の特定目的のために支出します。

そして、「私がこの保育園を建てました!」や「私がこの保育園の補助金をつけました!」みたいな話を人々に向かって主張します。そして、補助金の利用者などを制限して保育園の供給量を意図的に減少させることで自分への求心力を維持し続けます。

念のため確認しておきますが、彼が保育園を建てるために使ったお金は皆から集めたお金であって彼の私物ではないことは言うまでもありません。

(2)政治家の場合

政治家の基本的な発想は「その地域に自然と保育園が建つように誘導する」というものです。たとえば、現役世代向けの減税を実施すれば、同世代の可処分所得が増加して子育てのための費用へ割く金額も増加します。

増加した子育て用費用が地域に循環することによって、自然と保育園が建っていくように誘導するのです。この場合、政治家は「私がやりました!」というのではなく、「人々が自然と行ったこと」を追認するということになります。

他人が与えるのではなく自らが創り上げていく苦労と喜びを人々にもたらします。基本的には目立つ存在ではありませんが、人々の生活を陰ながら支えていく存在です。

(3)慈善家の場合

慈善家は所得の有無に関係なく保育のための税金による手当を地域の人々にばら撒きます。このお金を狙って地域には保育園が建てられていき、保育園同士の一定の競争が発生することで質も担保されます。

このとき、慈善家は「私は誰もが保育園に通える環境を作りました!」と述べるでしょう。しかし、そのための多額の費用は税金から支出されることに変わりはなく、全ての政策に同様のことが実行されれば財政は破綻するでしょう。

以上が、政治屋、政治家、慈善家の違いです。あなたの地域にはどのような議員が多いでしょうか。

政治屋はお涙話が非常に巧みであり、慈善家は聡明な感じがするものです。しかし、私は「政治家」が世の中に増えると良いなと思っていますが、政治家の実績は分かりづらいために有権者の目が肥えることが重要です。





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yuyawatase at 12:00|PermalinkComments(0)