右翼
2015年11月21日
切捨御免!ひきこもり保守の代表格「はすみとしこ」さん
シリアで発生した難民問題に関して、日本のイラストレーターの「はすみとしこ」さんが人種差別的なイラストを描いたことで話題となりました。一部の保守がこのイラストに賛同したことは大変残念であり、日本の保守のブランドを汚すものとして、そのグローバル意識の低さは改善されるべきものです。
脆弱な国内レイシストとしての育った戦後保守
戦後日本の保守の一部は、第二次世界大戦に敗北した結果、戦勝国や在日朝鮮人らに対して劣勢な立場に立たされてきており、そのカウンターカルチャーとして発展してきた傾向があります。つまり、自分たちが何者であるかを自己規定できない中で、自分たちに敵対的な勢力を鏡として自らの姿を規定してきたのです。
そのため、これらの矮小な保守はグローバルな動きは敵とみなし、自ら国内でしか通用しないレイシスト的な貧弱な愛国意識を育んでしまっています。
このようなレイシスト的な傾向が発達してきた傾向の背景には、敵対勢力による理不尽な日本人への敵対行為やバッシングが存在しており、それらのバッシング主体を口汚く罵ることによって歪んだ保守は影響力を持つことができるようになりました。特に中国、韓国、北朝鮮の対日姿勢は非常に愚かであり、それらの国の政府が日本の保守のゆがみを育てた育ての親と言えるでしょう。
<はすみとしこさんの作品>
実は日本人全体の潜在意識に埋め込まれた歪んだ精神
日本国民は現在人口減少と遅れたグローバル化という2つの難題に直面しています。
安倍首相は国連の場でシリア難民の受け入れよりも日本人の人口減少対策が急務であることを述べて顰蹙をかいましたが、それは上記のような歪んだレイシズムに基づく保守の影響を受けたものだと言えます。(そして、日本人単体の人口減少は子育て支援などで解決できるようなレベルでもないため、人権問題以前に冷静な国家運営すらできないということを露呈しています。)
もう一つは世界的な人口成長・経済成長から取り残された、遅れたグローバル化の状況も深刻です。途上国に出て見ればわかりますが、既に日本の資本は他国に対して大きく後れを取っています。これは日系企業の官僚主義=国内の内向き姿勢が影響したものです。
実は上記のような歪んだ保守の持っている特徴は多くの日本人が抱いている日本像に近いものがあり、それらの意識が歪んだ保守の浸透を側面的に支えています。いわゆる左派であったとしても、米国に対する劣等意識から排除的な反米論を述べており、同じように脆弱な日本人の精神を体現しています。
国内でしか通用しない保守を自浄する「新しい保守」が必要
ただし、現在の日本が抱えている上記の2つの問題は、脆弱で歪んだ保守、には解決できません。
今回の問題であれば、シリア難民の話は人権に敏感な西欧社会を中心に発生している問題であり、基本的な国際社会に通用するグローバルな感覚を持っていない、ひきこもり保守が起こした典型のような失敗談です。本人は偽装難民を揶揄したものとして弁明していますが、グローバルな活動をするにはリテラシー能力が低かった、ということが根源にあります。
これから必要な保守は、日本国に対する誇りを持ったグローバルな意識を持つ保守です。敵対国によるカウンターカルチャーとしての保守ではなく、自らの意志を発することができる日本ということになります。
日本が経済的・社会的に飛躍するときは常に対外的に開けた時代であり、外国人の力を利用しながらそれらの力を日本社会に統合することに成功してきた歴史を思い出すべきでしょう。
海外から人間が入ってくる程度のことでビビッて閉じこもるような日本人であれば、遅かれ早かれ諸外国から食い物にされていくことになります。私はそのような自信のない日本人に魅力を感じることはありません。
私自身はアベノミクスの第四の矢として「移民の推進」が当然提示されると思っていたのですが、代わりに1億総活躍社会という真逆の方向の標語が掲げられたことで、やはり安倍政権にそのような大胆な政策を期待することが間違っていたと思います。
国内の歪んだ保守、そしてその背景にある日本人の引きこもり根性を自浄する、自信と誇りを持った力強い日本国民による保守が今こそ重要です。
yuyawatase at 12:00|Permalink│Comments(0)
2015年11月20日
「日本会議」の動員力は政治力を測るメルクマークになった
私は日本会議とはほとんど面識もないのですが、彼らがグラスルーツ・ネットワーク(草の根)としては日本で成功した一つの形であると理解しています。元々草の根団体というと左翼系団体の香りがしますが、日本会議が土着の保守勢力を一つのネットワークとして形成した実績は全ての政治に関わる人々は参考にすべきです。
憲法改正という大事業を首相に明言させる動員力
日本会議は日本有数の保守系のグラスルーツであり、神道系・仏教系の伝統宗教・新宗教が中心となった政治勢力です。所属する国会議員数も280名程度存在しており、政界において精神面・動員面の観点から影響力を強めています。
具体的には、同団体は新憲法制定の他にも国旗国歌法の法制化や拉致被害者救出、教育基本法の改正、安全保障法制の整備などに取り組んできています。
11月10日日本会議が主導した憲法改正に向けた大会が日本武道館で開催されて各党代表者が出席する中、安倍首相の改憲に向けたメッセージ動画が自民党総裁名で発表されました。
主催者によると、日本武道館に集まった人員数は1万1千人、憲法改正を求める署名数は447万人を集めたされており、日本会議の圧倒的な動員力が示された形となっています。
国技館を一杯にする動員力あれば何でもできるのか?
日本会議の主義主張は分析の対象にはしませんが、同イベントを通じて、動員人数1万人、署名人数450万人という指標は民主主義において一つの指標になりました。全政策の中で最も困難な憲法改正を口約束とはいえ、現役の内閣総理大臣に約束させるために必要な動員数のメルクマークが誕生したのです。
もちろん、日本会議の構成団体には保守系議員に強い影響力を持つ神道系の人々が多数含まれているため、一概に動員数だけの問題ではありませんが、日本武道館を一杯にすることが動員数の指標になったことは間違いありません。
日本会議主導の憲法改正のイベントは、シングルイシュー(憲法改正など)を掲げて、1万人の動員をデモなどではなく集会の形で実現することが出来た場合、首相から言質を獲得することができるという事例として極めて重要な意味を持つものとなりました。
小さな政府を実現する政治勢力の大集会を実現すべき
私は「小さな政府」を実現して、力強い経済成長や世代間格差の是正を成し遂げていくべきだ、と考えています。
ただし、従来までは「小さな政府」を信望する人々は団結することがなく、逆に少人数でも集まって声を上げるタックスイーターの政治的な意向ばかりが政策に反映されてきました。
小さな政府に直結する減税改革は、その改革の恩恵が薄く広く国民に拡がることに特徴があり、限られた少人数で特定の税財源を貪るタックスイーターのように専任者を置くような継戦能力を作ることも困難でした。
しかし、仮に日本武道館を1万人の参加者で埋め尽くすことで政治的に一定の影響力を持てるとした場合、小さな政府を信望する人々が一日だけ所得税・法人税・消費税などの引き下げに同意して集会に参集することは可能だと思います。
重要なことは、全ての税金の引き上げを凍結し、全ての税金の引き下げに合意する、という一点のみで集まることです。そのため、現在働いている人・過去に働いた人から取り上げた税金で暮らそうというタックスイーターは入れないでしょう。
しかし、真面目に暮らしている多くの日本国民は参加することができるはずです。今後、日本は真面目に働いている人を大事にする政治にシフトしていく必要があります。そのための大きな流れを創り出すことが必要です。
yuyawatase at 07:00|Permalink│Comments(0)
2015年11月09日
佐々木俊尚氏のヘイト規制正当化論に断固反対する
佐々木俊尚氏のヘイト規制と表現の自由に関する議論
http://togetter.com/li/896972
佐々木俊尚さんがヘイト規制と表現の自由のどちらが優先するのか、という議論をされていました。この問題については議論する間でもなく結論が出るものであり、なおかつ佐々木氏の意見は非常に危険なものだと思います。
佐々木俊尚氏の主張は一見まともに見えるが。。。
佐々木氏の結論を佐々木氏自身から引用にすると、
「要するに自分が悪であると認定した相手なら、何を言ってもいいのかという問題ですね。でも何度も何度も言いますが、目的は手段を浄化しません。」
「正義と正義を空中で投げ合ってるからああいうことが起きるわけで…。しかし自分と異なる正義を許容できない人がたくさんいる以上、あのようなことはなくらないし、であればヘイト表現への法的規制しかない。」
「まったくおっしゃる通りだと思います。中道の勢力を糾合する文化が今本当求められていると思うのですが。」
ということになります。
この一見して中道かつ理性的(左右の暴力的な言葉に比べれば)な意見が実際には何の役にも立たないどころか、事態をより深刻化させる言説である理由がお分かりいただけるでしょうか。
以下、このような発言が何故問題であるのかについて説明していきます。
佐々木俊尚氏の主張の欠陥とは何か
佐々木氏の主張の欠陥は、政府を通じて法的に規制しようとしている、ことです。
政府を通じて法的に規制するためには「ヘイトとは何か」ということについて客観的に規定する必要があります。しかし、そのようなことは厳密には不可能であり、人間の価値観に抵触する問題なので客観的に「ヘイト」と認定することは本来不可能となります。
そのため、「客観的なヘイト」とは「政府が認定または裁判所が認定したヘイト」ということになると思います。しかし、それは「何がヘイトであるか」という自らの価値判断を他人である政府機関に委ねることにつながります。
そして、佐々木氏は「ヘイト規制が表現の自由よりも優先する」という考え方を持たれているようです。ただし、それは「中道である自分」がヘイトと考えているものを他人もヘイトと認定する、という「中道主義者特有のバランス感覚」に根差したものです
つまり、一見左右の暴力的なスピーチと比べてまともなことを言っているように見えますが、その発言の根っこにある思想は彼らと同一のレベルでしかないということです。
「俺のヘイトは俺のもの、俺のヘイトもお前のもの」という輸出型のジャイアニズムです。
このように自分はマトモだと思っている人はその驕りによって油断している、しかし現実には左右の暴力的な言葉を発する人と同じ思考をしています。これらを理性な・寛容な意見として振りまくことは百害あって一利ありません。
表現の自由はヘイト規制に優先するし、ヘイト規制は存在自体が認められない
表現の自由がヘイト規制に優先することは当然であり、ヘイト規制自体が認められないというべきものです。
政府機関による表現の妥当性に対する解釈を認めることは、個人の価値観の表現に政府が堂々と介入する余地を与えます。一度政府が認定した「ヘイト」を表現を行うことが許されず罰則の対象になるでしょう。
この恐ろしさに関しては、政府機関と言論の表現に対する解釈について争ったことが無ければ分からないことなのかもしれません。そのため、少なくとも佐々木氏はジャーナリストとして表現の自由の脆さについて敏感になるべきだと思います。
政府は中立的な組織ではなく自分たちの目的のために国民に価値観を強制することができる、ということを思い出すべきです。そして、まさに価値観を巡る問題では「中立的な価値観」なるものは虚構でしかありません。
中道やバランスなどというものは存在せず、政府機関による表現規制を認めるか否か、政府の許可制の下に表現の自由を置くべきか、という根本的な命題に関する問題です。
何もなかったところに「規制」を作る行為は中道ではなく、左派または右派「規制推進論者」と変わらないということです。
yuyawatase at 17:00|Permalink│Comments(0)