佐々木俊尚

2015年11月09日

佐々木俊尚氏のヘイト規制正当化論に断固反対する

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佐々木俊尚氏のヘイト規制と表現の自由に関する議論
http://togetter.com/li/896972

佐々木俊尚さんがヘイト規制と表現の自由のどちらが優先するのか、という議論をされていました。この問題については議論する間でもなく結論が出るものであり、なおかつ佐々木氏の意見は非常に危険なものだと思います。

佐々木俊尚氏の主張は一見まともに見えるが。。。

佐々木氏の結論を佐々木氏自身から引用にすると、

「要するに自分が悪であると認定した相手なら、何を言ってもいいのかという問題ですね。でも何度も何度も言いますが、目的は手段を浄化しません。」

「正義と正義を空中で投げ合ってるからああいうことが起きるわけで…。しかし自分と異なる正義を許容できない人がたくさんいる以上、あのようなことはなくらないし、であればヘイト表現への法的規制しかない。」

「まったくおっしゃる通りだと思います。中道の勢力を糾合する文化が今本当求められていると思うのですが。」

ということになります。

この一見して中道かつ理性的(左右の暴力的な言葉に比べれば)な意見が実際には何の役にも立たないどころか、事態をより深刻化させる言説である理由がお分かりいただけるでしょうか。

以下、このような発言が何故問題であるのかについて説明していきます。

佐々木俊尚氏の主張の欠陥とは何か

佐々木氏の主張の欠陥は、政府を通じて法的に規制しようとしている、ことです。

政府を通じて法的に規制するためには「ヘイトとは何か」ということについて客観的に規定する必要があります。しかし、そのようなことは厳密には不可能であり、人間の価値観に抵触する問題なので客観的に「ヘイト」と認定することは本来不可能となります。

そのため、「客観的なヘイト」とは「政府が認定または裁判所が認定したヘイト」ということになると思います。しかし、それは「何がヘイトであるか」という自らの価値判断を他人である政府機関に委ねることにつながります。

そして、佐々木氏は「ヘイト規制が表現の自由よりも優先する」という考え方を持たれているようです。ただし、それは「中道である自分」がヘイトと考えているものを他人もヘイトと認定する、という「中道主義者特有のバランス感覚」に根差したものです

つまり、一見左右の暴力的なスピーチと比べてまともなことを言っているように見えますが、その発言の根っこにある思想は彼らと同一のレベルでしかないということです。

「俺のヘイトは俺のもの、俺のヘイトもお前のもの」という輸出型のジャイアニズムです。

このように自分はマトモだと思っている人はその驕りによって油断している、しかし現実には左右の暴力的な言葉を発する人と同じ思考をしています。これらを理性な・寛容な意見として振りまくことは百害あって一利ありません。

表現の自由はヘイト規制に優先するし、ヘイト規制は存在自体が認められない

表現の自由がヘイト規制に優先することは当然であり、ヘイト規制自体が認められないというべきものです。

政府機関による表現の妥当性に対する解釈を認めることは、個人の価値観の表現に政府が堂々と介入する余地を与えます。一度政府が認定した「ヘイト」を表現を行うことが許されず罰則の対象になるでしょう。

この恐ろしさに関しては、政府機関と言論の表現に対する解釈について争ったことが無ければ分からないことなのかもしれません。そのため、少なくとも佐々木氏はジャーナリストとして表現の自由の脆さについて敏感になるべきだと思います。

政府は中立的な組織ではなく自分たちの目的のために国民に価値観を強制することができる、ということを思い出すべきです。そして、まさに価値観を巡る問題では「中立的な価値観」なるものは虚構でしかありません。

中道やバランスなどというものは存在せず、政府機関による表現規制を認めるか否か、政府の許可制の下に表現の自由を置くべきか、という根本的な命題に関する問題です。

何もなかったところに「規制」を作る行為は中道ではなく、左派または右派「規制推進論者」と変わらないということです。





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yuyawatase at 17:00|PermalinkComments(0)