事由

2015年12月15日

大人の教科書(18)全ての政治家は思想家の道具でしかない


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全ての政治家は特定の思想家の道具に過ぎないということ

最近の風潮として現場に立たない学者などが現実の政治実務に関わる首長・議員らに意見を述べることについて、不寛容な政治家が増えてきた気がしています。

その要因として、現在の政治がそれだけ予算その他の面で一杯一杯なこと、政治家に寛容に受け止めるような精神的・時間的な余裕がないこと、批判する学者らの能力が著しく低すぎること、などの色々なことが挙げられます。

しかし、政治家が何かを実際に実行しようとするとき、思想家の影響から逃れることはできず、どのような権力者であったとしても、過去または現在の思想家の道具に過ぎないのです。

そのことを知っているために、思想家は言葉を紡ぐことは辞めないでしょうし、政治家はその影響による呪縛から抜け出すことはできません。

政治家の価値判断の基準は、思想家の価値判断に依存している

政治家が何かを実行しようとするときには、何らかの政治的な価値観が必要となります。その価値判断の良い・悪いの基本的な部分を生み出しているのが思想家です。

政府規模の大小、政策の実行手段、話す言葉のイデオロギーのすべてが過去の思想家が考案したものを自覚的・無自覚的に採用しているのであり、そこからはみ出たことを実行することはできません。

たとえ政治家がモノを知らない人物であったとしても、過去と現在の思想家とその思想の影響下から逃れることはできず、むしろ特定の思想家の体系だった思考形式ではなく、あちからこちらの思想家からつまみ食いした政策が実行されていくことになるでしょう。

思想家の価値判断を踏まえずに、現場の改善作業が行き着く先はどこか

思想家が述べるような空理空論よりも、自分は現場の政策を少しでもマシなものにしていくために頑張っている、と述べる政治家もいます。実際の問題として、自分が何をしゃべっているのか分からない大学の名誉教授のような人々も多くいますので、これらの意見は一定の説得力を持ちます。

しかし、このような現場の改善作業自体の一つ一つを実行していくとき、個別の良し・悪しの判断はやはり過去・現在の思想家の影響を受けているわけです。そして、それらの部分改善は体系だった思想に基礎づけられていないために、チグハグなパッチワークのようなものになっていきます。

その結果として生まれるものは、全ての人々を満足させるべく、全てのことを実行する政府に他なりません。予算制約などの技術的な問題は実務的に解決できるため、それらが同時に全て実行されたときに起きる自由喪失の悲劇を看過するのであれば、政策の部分改善の積み上げはどこまでも実行可能です。

政治家のための思想家が必要とされるときに何が起きているのか

逆に政治家が思想家を道具として使うことによって何が起きるのでしょうか。

政治家は自らの権力追求を絶対善とする人々です。むしろ、政治家本来の思想とはこの一点に集約するといっても過言ではありません。

政治家に人間としての良心の呵責を期待することは間違いです。なぜなら、政治家は(特に議会議員)は立法府という人格性の無い組織の一部であり、自らの選挙における勝利によって権力を掌握して自らの再生産を実行できる存在だからです。その人物個人は何らかの政策判断に同情的であったとしても、彼らは立法府の組織の一部として議場に立っている存在に過ぎないのです。

その政治家が自らの役に立つ思想家のみを求めることは、非常に大きなリスクを孕んだことだと言えるでしょう。
彼らは自らの権力強化を可能とする政策実行に役立たないものを非現実・非道徳的として切り捨てます。その際に、目障りな思想及び言論について規制をかけることも可能です。

それらを防止するために、憲法で言論の自由が確保されており、非常に明察な思想家から愚かな思想家まで自由に意見を交わす形が整えられています。私たち有権者が理解して言論の自由・思想の自由があることの意味を見つめ直すべきでしょう。








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yuyawatase at 07:00|PermalinkComments(0)