大人の教科書

2015年12月09日

大人の教科書(14)自由の終わり(ファシズム)は静かにやってくる

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ファシズムは誰もが気が付かない小さなところから始まる

人権を抑圧する自由の終わり(ファシズム)は誰かが音頭を取って大々的に始まるものではありません。この夏に新安保法制を巡って激しい議論がありましたが、むしろ問題が顕在化しているようなことは安心なものだと思います。

ファシズムは「今日からファシズムが始まります!」と宣言されるものではなく、日本の地域で起きている小さな出来事から始まります。そして、それらの出来事が積み重なっていく中で、次第に人々の自由や権利が抑圧されていくことになります。

そのため、左翼陣営が大騒ぎしているようなことは大したものではなく、むしろ彼らも含めて黙認しているようなことがファシズム全体の引き金になっていくのです。

手柄を欲する役人の小さな欲望という無自覚な抑圧のスパイラル

ファシズムは手柄を求める一介の官吏の小さな欲望から始まります。彼は、ヒットラーのような稀代の独裁者ではなく、自らの出世や見栄などの動機で倫理のタガが緩んで、言論や人権の侵害をほんの少し行うだけです。

しかし、その一介の官吏の「ちょっとした行為」が後々全体の抑圧が拡大していくプロセスの引き金になっていくのです。彼にはそんな大それたことを行った自覚はなく、自分のプライドを傷つけた市民などへの簡単な報復程度の認識だと思います。

そして、一度弛んだ倫理のタガというものは次々の外れていくものであり、その一介の官吏だけではなく全国の官吏が同様の行為に関してのタガが外れていくのです。したがって、彼の罪はヒットラーなどの独裁者と本来は同じものですが、彼らには小さな良心の呵責以上の罪の意識はないのです。

誰も予定していなかった結末を迎える未来に向かって

権力の暴走とは、明確な独裁者が存在して暴走するのではなく、暴走を止める独裁者すら存在しない状況を指します。一度回り始めた歯車のスピードを抑えることは極めて難しく、官吏や政治家自身も束縛するものとなり、誰にも手が付けられないものとなります。これがファシズムです。

およそ「アベ政治を許さない!」とか、バイネームで政権批判できているうちが華であり、暴走する政府機関は匿名性の中で人々の自由と人権を蹂躙していきます。そこには呼ぶべき独裁者の名前など存在しないのです。

そして、誰も予定していなかった結末としての悲劇を迎えることになります。結末の段階では、最初の引き金を引いた官吏が生き残っているかは全くの不明ですが、自らの生命と財産を奪った人物が自分である、ということには思いは至らないことでしょう。

心ある政治家だけが人々の自由を守ることができる

現代の日本では日本の僻地の小さなところから人知れずに抑圧が拡大しています。誰もが自分とは直接の関係がないと思っているところからファシズムの芽が生まれつつあります。

心ある政治家だけがそのことに気が付いて人々の自由のために声を上げることができます。自らの生命と財産を賭けてバッシングを受けながら戦う、彼らの言葉が人々の心に届いているでしょうか。







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yuyawatase at 21:00|PermalinkComments(0)

大人の教科書(13)ベーシックインカムは貧困層のためになるか?

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貧困対策としてベーシックインカムの導入が政策の俎上に上ってきている?

フィンランドがベーシックインカム(一定の所得保証の代わりに社会保障を大幅に削減する仕組み)の導入を検討しているということがニュースとなりました。(日本では導入決定という誤報が駆け巡りましたが、実際には来年調査を開始して再来年に試験導入するかどうか、という話)

勝手に毎月自分の口座に入金が行われてくるこの世の楽園が訪れるかのようなベーシックインカムについては、日本でも良い面と悪い面があることについて理解しておく必要があります。

ベーシックインカムを導入すると、複雑化した社会保障システムを一掃できる利点アリ

たとえば、毎月50,000円を国民全員に支給した場合、毎月約・6兆5000億円、年間で約78兆円の政府支出ということになります。そして、年金、医療、介護、子育て、生活保護、教育などのソフト系補助金を全廃するということになります。日本の政府支出は極めて非合理で複雑なものなので、ベーシックインカムを導入することでそれらの社会保障が一掃できることは非常に魅力的です。

ちなみに、現在もベーシックインカムとほぼ同じ生活ができる地域として沖縄県が挙げられます。沖縄県は地方交付税と国庫支出金だけで1人頭・月4.3万円の所得移転を受けており、上記の一見不可能なように思えるベーシックインカムもどきの財政移転を実行している県だったりするわけです。(もちろん税金は一部の政治的支配層の人々の懐に入るため、県民全員が4,3万円を毎月ゲットできませんが・・・)

それらのお金の大半は東京都民などの都市部住民が負担しているわけですが、現行の制度はイチイチ複雑に作ってあるので都市部住民は何となく違和感を感じながら搾取され続けています。このような非合理な仕組みを廃止して全員に無条件に5万円づつ配る形にすることにも一定の合理性はあります。

ベーシックインカムを導入すると、労働投入量の減少で物価上昇が起きる可能性アリ

ただし、ベーシックインカムを導入すると、バリバリと働く意欲が減退するために労働投入量が減少することになります。働かない人が生まれるというよりも全員がちょっとづつ働かなくなる、というイメージでしょうか。

現行の非合理な制度においては、東京都民などの都市部住民は沖縄県に代表される地方のベーシックインカムもどきを支えるために朝から晩まで働き続けています。そして、モノやサービスなどが大量に生み出され続けている状況があります。

しかし、国民全員が5万円づつ受け取ることになった場合、東京都民などの都市部住民もバリバリ働かずに少しづつ楽をしながら暮らすことになります。その結果として、生産されるモノやサービスの量が減少して物価が上昇していくことになるでしょう。

また、財源を所得税・法人税で賄えば更に生産性は低下しますし、消費税で賄えばベーシックインカムの意味が薄まります。そのため、新しい通貨を供給する(日銀券を刷りまくる)と無限に物価は上がります。

そこで、負のスパイラルが起きて物価が上昇していき、ベーシックインカムも物価スライドで上昇し、・・・という、インフレスパイラルに突入することは目に見えています。強烈なインフレは資本主義が成り立つ条件そのものを破壊し、もちろん貧困層の生活も崩壊することになるでしょう。

ベーシックインカム導入というよりも「既存のベーシックインカムもどき」を停止するべき

新たにベーシックインカムの導入を議論する前に、既に日本国内で実行されている実質的なベーシックインカムを停止するべきです。

生産地域・生産年齢人口の過重な負担を強いることによって成り立っている現行の日本のシステムを改めるべことが重要です。日本経済が停滞している理由は、主に都市部の生産年齢人口に異常な負荷をかけることによって、そのやる気を削ぐとともに人口減少を誘発していることにあります。

所得税・法人税を地方税化して地方自治体が経済・雇用の責任を担うものとし、中央政府が社会保障を担うものという明確な区分を実施することが必要です。そして、地域全体への財政移転ではなく社会保障費用は各人に直接給付するという形式に移行するべきでしょう。

そして、全体の財政移転のボリュームを絞っていくことで働く人への恩恵を増やす、という当たり前の状況を作ることが望まれます。政府による給付はどのような形であっても人間の活動の堕落を招くものです。

ベーシックインカムの導入の是非を巡る議論を通じて、日本で実行されている既存のベーシックインカムもどきのおかしな現状が白日の下に晒されることを期待しています。

21世紀の不平等
アンソニー・B・アトキンソン
東洋経済新報社
2015-12-11




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2015年12月06日

大人の教科書(12)「反知性主義」は馬鹿の意味ではないということ

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日本の左翼論壇の皆さんは「反知性主義」批判が大好きだけれども・・・

日本で左翼系の大学教授らが安倍政権を反知性主義と呼んで批判していますが、反知性主義と単なる馬鹿を区別しなくては、反知性主義者に対して失礼だと思います。

「反知性主義」と「馬鹿」はほぼ同義のニュアンスで使われる傾向がありますが、この2つの言葉には明確な違いがあります。そして、反知性主義を「馬鹿」の意味で使う人は、反知性主義者が批判する対象そのものであることを自分で告解しているに過ぎないのです。

それでは「反知性主義」を罵倒する人、「反知性主義者」として意見を述べる人とは実際どのようなものでしょうか。

「反知性主義」の批判のターゲットは「知的権威・エリート」とされている人々

反知性主義者が批判のターゲットとしている存在は「その時代の知的権威・エリート」とされている人々です。簡単に言うと、知的主流派としてのさばっている人々に対して反対意見を述べる人々が反知性主義者というわけです。

そして、その時代に常識とされてきた「知的権威」に対する反証材料は、自らの周囲の素朴な観察によって生まれてくる傾向があります。つまるところ、「裸の王様化した知性」に対して「お前が言っていること、おかしいんじゃないの?」と声を投げかけるのが反知性主義です。

当然、知的権威・エリートとして崇められてきた人々(内田樹さんとか)は面と向かって「お前は間違っている」と自分よりも知的権威が低い(学歴が低いなど)人間に言われたことがないので、自分のプライドを否定されたことで「あいつは反知性主義者だ!!!」と言って切れることになります。

「反知性主義」は、新しい知性が台頭するためのプロセスに過ぎない

しかし、「反知性主義」という言葉を使って自分と意見を異なる人々を批判する知的権威っぽい人は自らが過去の人になったことを自覚するべきでしょう。自らが「裸の王様化した知性」であるという深層心理があるからこそ、反知性主義という言葉を使って相手を非難するのです。

彼らは自分で自分のことを「この時代の知的権威・エリートは俺様だ」と述べている「恥ずかしい人間」になっていることを認めるべきです。しかも、自分に対する批判を自らの根幹にある知性ではなく「反知性主義」というレッテルを貼る行為で行うという残念な感じ。

反知性主義とは「知的権威・エリート」が移行していくプロセスで生じる存在であり、それらの移行終了後には「現代の反知性主義」が「未来の知的権威・エリート」となって批判されていくことになるのです。

とりあえず、内田樹さんのような人々は、自らが批判したい人々のことを「反知性主義」というのではなく「馬鹿」と呼んだら良いのではないかと思う次第。

アメリカの反知性主義
リチャード・ホーフスタッター
みすず書房
2003-12-19




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yuyawatase at 17:00|PermalinkComments(0)

2015年12月05日

大人の教科書(11)「学問のすゝめ」の本当の意味

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「『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』と言えり。」で始まる名文

福澤諭吉と言えば上記の一文から始まる「学問のすゝめ」は非常に有名です。しかし、「と言えり。」となっているように、このあまりにも有名なフレーズは福沢諭吉による引用表現だったのです。

人間が平等である、という趣旨で使われることが多い福澤諭吉の「天は〰」のフレーズは、実は「学問のすゝめ」の中ではさほど重要なものではなく、本論をく展開するための触りの部分でしかありません。

上記のフレーズばかりが普及した結果として、その本旨とは異なる左翼的平等主義の代名詞として福澤の言葉は社会に喧伝されてきました。しかし、それは誤解でしかないのです。

では、福澤諭吉の本当の問題意識とは何だったのでしょうか。

福澤諭吉は、本来平等であるはずの人間に「格差」が生じる理由を考察していた

福澤は続けて、「されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。」という問いを立てます。

つまり、賢人も馬鹿も、貧乏も富豪も、貴人・下人も、どうしてこんなに差がつくのか、ということが福澤の「学問のすゝめ」のテーマなのです。つまり、様々な「格差」はどうしてもつくのか、ということが話題の中心だったのです。

そして、 「人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。」という結論を提示していきます。

要は「学問」をやったかやらないか、で貧富の差が生まれるんだよ、ということが述べられているわけです。格差の原因は「知的な資本」の蓄積こそが重要ということになります。そして、学ぶべきものは生活に役立つ「実学」であるべきだということが続きます。

福沢諭吉が提唱した自由主義の基本的な原理である「分限」の考え方とは

福澤は自由主義の基本的な考え方である分限についても述べていきます。

分限とは、「天の道理に基づき人の情に従い、他人の妨げをなさずしてわが一身の自由を達することなり。自由とわがままとの界(さかい)は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。」ということです。

要は、他人に迷惑をかけることはダメだということです。その上で、自分のお金だからと好き勝手することは他の人の悪い見本になるから、やはりダメであるということが述べられています。

さらに、「彼に余るものは我に取り、互いに相教え互いに相学び、恥ずることもなく誇ることもなく、互いに便利を達し互いにその幸いを祈り、天理人道に従いて互いの交わりを結び、理のためにはアフリカの黒奴こくどにも恐れ入り、道のためにはイギリス・アメリカの軍艦をも恐れず、国の恥辱とありては日本国中の人民一人も残らず命を棄すてて国の威光を落とさざるこそ、一国の自由独立と申すべきなり。」

と述べて、自由貿易の基本的な原理と国際的な道義を貫くことが、国の自由独立につながると主張しています。

福澤諭吉は「愚民」には「苛酷な政府の仕置きが待っている」と述べている

最後に、「かかる愚民を支配するにはとても道理をもって諭さとすべき方便なければ、ただ威をもって畏おどすのみ。西洋の諺ことわざに「愚民の上に苛からき政府あり」とはこのことなり。こは政府の苛きにあらず、愚民のみずから招く災わざわいなり」と、国民と政治の在り方の関係を説いています。

愚民を支配するには理屈で諭すことはできないので威圧するしかないため、苛酷な政府は愚民自らが招いたものだとして総括しています。

そして、この「愚民」とはどんな人々かというと、

・無知文盲の民で、無知で貧困になったとき、己の身を反省せずに、傍らの富める人を怨んで徒党を組んで乱暴を行う、恥知らずの無法者
・身元が確かであるが蓄財するばかりで子どもに教育を残さない者(最後には家を滅ぼす結果に・・・)
 
などが挙げられています。現代社会でも「よく見かけるタイプ」の人々です。そのため、まともな国にしたいなら、やはり「学問」が必要だということになります。

福沢諭吉の「学問のすゝめ」をよく読んで「格差」を問題にするダメな大人にならないように

ざっくり福澤諭吉の「学問のすゝめ」のサマリーをまとめるとこんな感じです。「最低賃金がどうのこうの」「奨学金がどうのこうの」とか言う前に「お前ら、学問しろよ」という福澤諭吉の説教が始まりそうです。福澤諭吉が述べている「平等」とは自由主義的な意味での人権の尊重であり、結果の平等のような道理が通らないことは主張していないからです。

今月から左翼の皆さんがわざわざ「福澤諭吉」にアジアへの侵略を煽った人というレッテルを貼って、1万円札から外そうという活動を開始していますが、本当は1万円札の福澤先生のお顔から溢れ出る正論から目を背けたいのかもしれません。

福澤先生のご尊顔を沢山拝みたい人は、先生の教えに従って学問をしっかりと修めることを「おすゝめ」します。





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yuyawatase at 23:47|PermalinkComments(0)

2015年11月29日

大人の教科書(10)左と右は180%回転すると同じもの

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世の中の政治的なスタンスとして「あの政治家は右だとか左だ」とかいうことがあります。しかし、実際のところ、それらが同じところから出てきた親戚みたいなものだということに説明します。

そもそも政治的なスタンスの右とか左って何ですか?
 
「右」の議員は保守、「左」の議員は革新、と呼ばれたりするわけですが、元々はフランス革命後の議会において座った席の場所で右・左と区分けされるようになりました。

ところが、現代社会に至るまでに政治闘争の結果として右や左が入れ替わったりしているため、右と左の政治的な呼称としての意味は言葉を使用する人によって異なるために、それらの明確な定義を求めにくい環境になっています。

そのため、上記のように右やら左やらのレッテルを貼るだけでは本記事の説明が分かりづらくなるので、政治的なポジショニングの区分けの整理をして、右と左は実は同じものだということを述べていきたいと思います。

右とか左ではない正しい政治的なポジショニングを知ること

一般的には政治的な立ち位置を分析する場合、(1)政府による経済介入の大小、(2)政府の思想・倫理への介入の大小という2軸で自分のポジショニングを知ることが出来ます。

(1)経済介入が大(2)思想介入が大=全体主義・共産主義(北朝鮮)
(1)経済介入が大(2)思想介入が小=社会民主主義(フランス)
(1)経済介入が小(2)思想介入が大=新保守主義(ネオコン)
(1)経済介入が小(2)思想介入が小=自由主義(ホリエモン)

というような分類です。自分がどのあたりに考え方に収まりそうかイメージ湧きますか?そして、日本の政党のポジションは実際のどこにあたるでしょうか?


戦後の右(自民)も左(社会・民主)も大体同じようなものだった

戦後の日本では、自民党などの保守勢力が「右」、社会党などの革新勢力が「左」とされてきました。

一応、自民党側は資本主義を守る政党で米国寄り、社会党側は社会主義を求める政党でソ連寄り、という区分けで左右の分類がなされてきました。

特に1990年以降は右と左という名称が自民党・民主党に引き継がれることになりますが、民主党や共産党は自民党(特に小泉政権)を新保守主義とか新自由主義という名称で叩き続けています。

ところが、少し考えれば分かりますが、55年体制以降の日本は一貫して政府の予算拡大・規制強化(経済介入=大)がされており、なおかつ右も左も教科書などへの思想教育(思想介入=大)を重視してきました。

要は右も左も大して変わらない「全体主義」への道をまい進している状況だと言えます。

政府の経済介入が強まると思想介入も強まっていくことは必然

このように書くと「左」(社民主義者)に区分されている人々から「我々を安倍ファシズムと同じにするな!」と怒られそうですが、実際には同じようなものなので仕方がありません。

また、仮に(1)経済介入=大(2)思想介入=小であったとしても、生活の原資を政府に握られてしまえば、その後に政権は国民に対して容易に思想を強制していくことが可能になります。大半の人々は生きていくために、自分の思想表現を簡単に変更してしまうものです。

自由市場を否定して格差是正を叫んだ先に待っているものは、北朝鮮のような政府独裁型の共産党主義国家です。

逆に、右の人々からは「我々を社会主義者・共産主義者と一緒にするな!」というクレームがあるかもしれませんが、彼らが求めている愛国主義的な思想統制は「経済介入=大」を実現しない限りは不可能です。

そのため、最終的にはナチスドイツのようなファシズム国家になっていかざるを得ません。つまるところ、共産主義(左)≒ファシズム(右)で建前は異なるけれども親戚みたいなものなのです。

正しい政治的なポジションニングを問う質問は「税金は上げることは良いことか?」のみ

上記の過程から右や左という区分が極めて無意味な質問であり、本当に重要なことは「政府の経済介入=税金を上げることは良いことか?」という質問だけで十分なのです。

政治家や政治に関心がある人に上記の質問をした場合に「YesかNoか」の回答が返ってきます。「税金を上げることにYes+その人物が権力者=危険人物」であり、「税金を上げることにYes+その人物が非権力者=頭が悪い人」ということになります。ちなみに、問題は経済全体における政府の規模の話なので、どの税を上げても結果は一緒です。

以上のことは大人の常識として知っておくと、悪い政治家にひっかからないで済みます。政治家は誰しもが己の権力の強化にまい進するものですが、せめて建前だけでも小さな政府を主張してほしいものです。

独裁者になるために
イニャツィオ シローネ
岩波書店
2002-12-20



 

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2015年11月28日

大人の教科書(9)何故、公共事業ではなく減税を行うべきか?

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代表的な財政政策の種類として公共事業と減税の2つは良く知られているところです。

特に日本では2000年代になるまで政権が公共事業を山のように積み上げ続けてきたため、景気対策の財政政策といえば「公共事業」というような刷り込みが行われてきました。今回は、公共事業と減税の2つの一体何が違うのかということについて取り上げていきたいと思います。

公共事業と減税で景気が良くなる理由は何故か?

景気の良し悪しはGDP(国内総生産)が成長しているか否かによって測定することが一般的です。GDPは個人消費、民間投資、政府支出、純輸出の4つによって構成されており、公共事業と減税は各要素を拡大する効果を発揮します。

公共事業は直接的に政府支出を拡大することでGDPを増加させることに寄与します。そして、政府支出が呼び水となって個人消費や民間投資も拡大すると仮定されています。

減税はお金がまずは政府から民間の手元に移ることになります。この時点ではGDPは変化しませんが、それらから消費や投資に使用された分だけGDPが拡大することになります。

公共事業と減税のどちらが景気が良くなるでしょうか?

日本では公共事業、米国では減税が財政政策として一般的に用いられてきました。

公共事業の方が減税よりもGDPが上昇すると考えられてきたため、景気対策といえば公共事業という手法が取られてきたからです。また、近年ではエコポイントやプレミアム商品券などの消費を無理やり促す形での便乗型バラマキ政策も実行されてきています。

公共事業は減税政策と比べて乗数効果(波及効果の一種)が高いと考えられてきたため、日本は積極的に公共事業を実施し続けてきた経緯があり、巨額の公的固定資本(道路などのインフラ)のストックを形成してきました。現在はインフラの維持費だけでも毎年莫大な金額となっています。

公共事業は用地費を除いたほぼ全額が公的資本として計算されるとともに関連産業への波及があると想定されてきたこと、減税は実際に消費に回る金額が公共事業で算入される金額よりも小さく波及効果が小さいとされてきたことが政府の判断に影響したからです。

何故、公共事業を行うべきではないのか?

上記のように公共事業が減税よりも景気刺激策として意味があるとされてきたわけですが、本ブログでは公共事業よりも減税を推進するべきだと主張しています。両者の成否は日本と米国の新産業の創造力の比較すれば明らかだと思います。

公共事業は減税と比べて経済波及効果が大きいということには陰陽の二面が存在します。公共事業が創りだす商品・サービスは新産業ではなく道路を代表とした社会インフラです。これらの社会インフラがそもそも無駄なものが多いだけでなく、それに関連する産業まで景気刺激されることに真の問題があります。

つまり、公共事業を闇雲に拡大した場合、経済効果が低い公共事業及び関連産業に中心に発生し、あるヒト・モノ・カネ・情報が大量に投入されるようになってきます。

その結果として、社会の有限な資産が無駄に浪費されることとなり、新たな消費や投資に繋がるような新産業の芽が育たなくなってしまうのです。無駄な公共事業にぶら下がった産業群が形成されることで社会の構造が固定化し、新産業への資源の移動が遅れてしまうのです。

何故、公共事業よりも減税の方が優れているのか?

一方、減税は一見して減税自体の効果は公共事業よりも低く見えますが、資金が消費・投資にダイレクトに結びつくことによって、新産業の商品・サービスの開発・提供が活発に行われることになります。

有限な資源が公共事業に浪費される状況と異なり、減税によって活性化した民間市場から生まれた新産業は将来に渡って自然な形で利益を稼ぎ続けることができます。また、環境変化に対する対応力も高く、常に新しい高付加価値の産業に資源が移動していきます。

21世紀になった後の日本と米国の決定的な違いは、公共事業で唯一の資源である人材を無駄に使ってきた日本と減税によって知的資本をフル回転させてきた米国の間に生まれた違いなのです。つまり、政府に言われるがままに道路の穴を掘ってきた人々と市場の中で熾烈な競争を生き抜いてきた人々の差です。

今日でも景気刺激というと公共事業やプレミアム商品券などが直ぐに出てきますが、中長期的に見た場合に人材育成に直結する減税に力を入れることは当然のことなのです。

増税が国を滅ぼす
アーサー・B・ラッファー
日経BP社
2009-07-16




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2015年11月27日

大人の教科書(8)資本主義は貧乏な人のためにある

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自由市場や資本主義という言葉を聞いた時に、私たちが同時に耳にする言葉は「格差」「貧困」などの言葉です。長い間、机上の空論の世界では、自由市場・資本主義は不平等を増大させ、富裕層が貧困層を搾取するという神話が拡がってきました。しかし、本当にそうでしょうか。

富裕層にとって自由市場・資本主義は必要な制度ではない

現実は資本主義が繁栄を達成し、それに反対した社会主義・共産主義が貧困をもたらしました。私たちは現実の社会について学びを深める必要があります。
 
まず最初に私たちが知るべき衝撃的な真実は「真の富裕層は資本主義を必要としていない」ということです。従来まで資本主義は富裕層のためにあると信じ込まされてきた人は驚くかもしれません。しかし、少し考えれば、これが当たり前のことだと気が付きます。

人類社会では資本主義が始まる前から、王侯・貴族が当時の超富裕層として存在してきました。彼らは資本主義など無くても「政府の権力・暴力」を使って幾らでも贅沢な暮らしができました。彼らは自分自身が贅沢な暮らしを継続するために自由市場・資本主義を求める必要があったでしょうか?

現在でも独裁国のトップは政府の力を使って、彼が支配する貧困に喘ぐ庶民には到底不可能な暮らしを行っています。彼らが豊かな暮らしを行うためには、搾取対象である庶民から絞り上げれば良いだけであり、同時に庶民が抵抗力を持たないように生活環境が向上しないようにすることが重要です。

むしろ、昔ながらの伝統的な富裕層にとって、自由市場・資本主義は普及してもらっては困るものであり、どちらも存在しない方が安心して独裁制を敷くことが可能です。

貧しい人に便益をもたらした自由市場・資本主義のシステム

独裁者はスーパーやコンビニに行く必要もなければ居酒屋チェーンに行くこともありません。それらは全て庶民が暮らしの中で望んで創られたものだからです。現在、先進国においては貧しいとされる人でもコンビニエンスストアで買い物を行うことは可能であり、貧困層とされる人でも平気で携帯ゲームで遊んでいます。

このようなサービスを自由市場・資本主義が無い社会では富裕層以外の人が受けることはできません。

工業技術や機械技術の発展がもたらした恩恵は、富裕層にとっては相対的に意味がないことであり、自由市場・資本主義が整備したあらゆるインフラ・サービスは貧しい人・一般の人が受ける恩恵のほうがメリットが大きいのです。ちなみに、現在でも富裕層にとってはスーパーやコンビニなどは必要不可欠なものではありません。

社会に存在しているインフラ・サービスの大半を誰が利用して消費しているのかを見れば、それらのサービスが誰のためであるかは明らかだと思います。このような当たり前の事実を無視した議論は意味がありません。

世界で一番貧しい人はどこに行けば沢山見つけることができるのか

私たちが世界で一番貧しい人の集団を見つけたいのであれば、資本主義が機能していない国を訪ねてみれば良いだけのことです。その社会では私たちの社会では機会によって代替されているあらゆる重労働がいまだに人間の手で行われていることが発見できるはずです。

また、現代の社会主義・独裁主義国である北朝鮮の姿を見れば明らかであり、自由市場・資本主義が誰にとって恩恵があるものかということは一目瞭然です。

かつて世界は独裁者が支配する空間ばかりでしたが、独裁者同士が対立した結果として、相手よりも豊かな国力を備える必要がありました。そこで、導入された仕組みが自由市場・資本主義であり、それによって多くの人々が経済活動の恩恵を受けたのです。

私たちは現在を都合よく切り取って見せる似非有識者たちの言説ではなく、人類が歩んできた確かな歴史にもっと自信を持つべきです。

選択の自由[新装版]―自立社会への挑戦
ミルトン・フリードマン
日本経済新聞出版社
2012-06-26

 

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2015年11月26日

大人の教科書(6)最低賃金1000円、首相は労働組合長なのか

マネキン

2015年10月1日から順次全都道府県で改定最低賃金が発効されています。最低賃金が増加したことに喜ぶ声や更に引き上げを求める声などがネット上には多く寄せられました。さらには、安倍政権が毎年3%程度の最低賃金を上げて1000円にすると言っています。

最低賃金1000円、更なる引き上げを求める人々に見えないもの

今年10月17日東京で最低賃金1500円を求めるデモが実施されるなど、政府による最低賃金の更なる引き上げを要望する動きも出ています。また、経営共創基盤CEO冨山和彦氏などのエコノミストは最低賃金1000円まで引き上げて産業の構造転換を図るべきという提言を出しています。

安倍政権は首相が労働組合長になったかのような勘違いで最低賃金1000円の引き上げを企業に要望しています。1億総活躍の意味がまともに働いた経験がほとんどないから分からないのでしょう。

これらの議論を見た場合、最低賃金を引き上げは全ての人々の賃金が引きあがったように見えます。しかし、今後、日本社会の在り方を考えた場合、最低賃金の引き上げ、もしくは最低賃金の存在そのものが大きな問題となる可能性があります。

最低賃金は超高齢化社会における「低スキル高齢者」の仕事を奪うもの

最低賃金の更なる引き上げを求めている人々は、最低賃金があるために就労可能性が奪われている人々のことを忘れています。最低賃金を引き上げた場合も当然に失われる雇用もあると思いますが、それ以上に現在の議論では「既に失われた雇用」がほとんど見えてきません。

日本は高齢化社会に突入しているため、大量の高齢労働力が余っている状況にあります。しかし、元々の社会構造や技術革新の問題から、現在の正規賃金では働けない高齢者の労働力が活用できていません。膨大な社会保障費の更なる増加を防止するため、高齢者の低賃金就労を促進することが重要です。

「最低賃金」は低スキルの高齢者から仕事を奪うため、「一億総活躍社会」どころか「老人総引退社会」を創りだすための政策でしょう。時給1000円も払って技術革新から取り残された高齢者を雇うことはないため、高齢者の就業は進まずに社会保障費がますます増加していくことになります。

政府が賃金を決定することは極めてナンセンスな行為である

そもそも賃金は雇用主と労働者の間で自由に契約して決定すれば良いものであり、自分で事業を行うわけでもない政府のような第三者が決定すること自体がナンセンスなのです。

過酷な労働環境を防ぐために最低賃金があると主張することも同様に意味がないことです。労働者にとって自らの職場環境を保証するものは豊富な労働のための選択肢だからです。仕事が沢山あれば幾らでも良い条件の仕事を選ぶことが出来るからです。





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2015年11月22日

大人の教科書(5)政治屋、政治家、慈善家の違い

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「あいつは政治屋だ」とか、「彼は政治家を目指している」とか、「彼女は立派な慈善家だ」とか、色々な言葉が使われることが多い議員の人物評価ですが、政治家・政治屋・慈善家の見分け方について基準のようなものが必要だと思っています。

そこで、今回は身近な「もっと保育園が必要だ」という社会問題に対する態度で三者の違いを説明したいと思います。

(1)政治屋の場合

政治屋の基本的な発想は「税金を使って保育園を建てる」というものです。保育園を全額税金で建てるのか、補助金を使って建てるのか、様々な方法はありますが、人々から集めた税金を自分の特定目的のために支出します。

そして、「私がこの保育園を建てました!」や「私がこの保育園の補助金をつけました!」みたいな話を人々に向かって主張します。そして、補助金の利用者などを制限して保育園の供給量を意図的に減少させることで自分への求心力を維持し続けます。

念のため確認しておきますが、彼が保育園を建てるために使ったお金は皆から集めたお金であって彼の私物ではないことは言うまでもありません。

(2)政治家の場合

政治家の基本的な発想は「その地域に自然と保育園が建つように誘導する」というものです。たとえば、現役世代向けの減税を実施すれば、同世代の可処分所得が増加して子育てのための費用へ割く金額も増加します。

増加した子育て用費用が地域に循環することによって、自然と保育園が建っていくように誘導するのです。この場合、政治家は「私がやりました!」というのではなく、「人々が自然と行ったこと」を追認するということになります。

他人が与えるのではなく自らが創り上げていく苦労と喜びを人々にもたらします。基本的には目立つ存在ではありませんが、人々の生活を陰ながら支えていく存在です。

(3)慈善家の場合

慈善家は所得の有無に関係なく保育のための税金による手当を地域の人々にばら撒きます。このお金を狙って地域には保育園が建てられていき、保育園同士の一定の競争が発生することで質も担保されます。

このとき、慈善家は「私は誰もが保育園に通える環境を作りました!」と述べるでしょう。しかし、そのための多額の費用は税金から支出されることに変わりはなく、全ての政策に同様のことが実行されれば財政は破綻するでしょう。

以上が、政治屋、政治家、慈善家の違いです。あなたの地域にはどのような議員が多いでしょうか。

政治屋はお涙話が非常に巧みであり、慈善家は聡明な感じがするものです。しかし、私は「政治家」が世の中に増えると良いなと思っていますが、政治家の実績は分かりづらいために有権者の目が肥えることが重要です。





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2015年11月21日

大人の教科書(4)格差社会を正しく理解する

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格差社会の本質、「貧困」と「富裕」はどちらが先に存在していたのか

世界を1対99に分けるような頭がおかしい言説を無視して考えるとして、世界を貧困と富裕の2つに分けるとした場合、最初に存在していたものは「貧困」でした。

人類史は狩猟などの極貧困時代(その日の食べ物をその日に狩る)から始まり、その後、農耕化することを通じて富を築きあげて一定の生活水準を保つことができるようになりました。それは種もみなどを蓄積して計画的に運用できるようになったからです。

その後、技術革新・制度革新が繰り返されることによって、社会的な富が増大していくにつれて貧困から解放される人々が増えてきたのです。

つまり、既にある程度富裕になった先進国で最初から生まれてしまった私たちには認識困難ですが、社会は元々「全員が貧困」な状況から「富裕な人々が出て来た」のであって、「全員が富裕」な状況から「貧困な人が出て来た」わけではないのです。

バシッと言われれば当たり前に理解できる話ですが、現代社会においてはこの基本的な認識が欠けている人が多く散見されます。

権力者にとっては資本主義など「必要ない」ということを知る

格差社会の問題として、資本主義が問題になることがあります。一部の人々がドンドン富めるようになり、それ以外の人が貧困になっていくという理屈です。これも本末が転倒した議論であることを学習するべきです。

資本主義社会が発展する以前の世界は「王様による独裁」または「貴族による少数支配」が普通でした。彼らは社会的な富を武力を背景とした支配力で自分のために使わせることが出来ました。

つまり、権力者は資本主義など有ろうが無かろうか、絶対的な力で物事を実行することができたのです。現代社会においても資本主義がほとんど機能していない北朝鮮の状況を見れば理解できると思います。

権力者がまるで資本主義を必要としているかのような話をする人は世界史をやり直してほしいものです。

資本主義は貧困者のために存在してきたということを知る

資本主義は貧困な人々のために存在してきました。現在、資本主義社会が提供しているあらゆるサービスの大半は「富裕層は使わない」ものです。そのため、それらのサービスを消費するのは中間層以下の人々ということになり、多くの人々がその利便性から恩恵を受けています。(コンビニなどもその一つ)

資本主義によって次々と便利なサービスが提供されることで人々の暮らしは豊かなものとなりました。町中で自分で作ったわけではない食べ物が売られている、またはゴミで捨てられている現状を良く見てほしいと思います。

また、資本主義を通じてかつては権力者が好き勝手できた社会の富を各個人の財産として保護することができている点も重要です。それによって、権力者も普通の人々に対して無茶苦茶なことができず、多くの人々からの同意を得なければ政治的にも経済的にも重要な決定ができなくなったからです。

仮に、世界が資本主義社会ではなく、専制国家または共産国家だらけであれば、権力者同士の欲望のために第三次世界大戦が発生してとっくの昔に人類史は継続不能になっていたでしょう。

格差社会で語られるべきことは「貧困」ではなく「富裕」である

格差社会で「貧困」を問題にする人は、物事の本末が分からない人です。世界は元々貧困だったのであり、貧困については今更新たなテーマにするほどの価値もありません。(むしろ、どうしても「貧困」をテーマにしたいなら、現在の貧困と過去の貧困の質的・量的な暮らしの環境の変化についてテーマにすべきです。)

格差社会でテーマにするべきことは「どうすれば人々が更に速やかに豊かになれるのか」ということです。

途上国を見れば明らかですが、資本主義・自由市場を導入した国は総体として豊かになっていることは事実であり、それらが機能しやすい環境を作っていくことが求められています。

そして、これは先進国でも同様であって「貧困」を解消するために「富裕」を解消するということがバカげた議論であることは明白だと思います。貧困を解消するための方法は社会全体の富を増やしていくことしか無いからです。

選択の自由[新装版]―自立社会への挑戦
ミルトン・フリードマン
日本経済新聞出版社
2012-06-26





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