トランプにビビるな!日本は対中共通関税の導入を検討すべきだあるリバタリアンから見た「新潮45休刊」問題

2018年10月16日

SDGs・グローバル社会主義時代の自由主義者たちへ

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ある地方自治体関連の会合での「ご婦人」との出会い

先日、地域の文化団体で活躍しているご婦人にお会いした。曰く、地域の学校教育で「SDGsを担う人材を創るためにESDに取り組む必要はないと地方自治体の審議会でガツンと言ってやった」ということ。SDGsとは、国連が定めた「持続可能な開発目標」のことであり、ESDは持続可能な社会の担い手を育てる教育活動を指す。ここ数年SDGsがグローバル企業、政府、社会団体に浸透してきたこともあり、地方自治体においても内閣府から補助金が貰えることもあってSDGsに沿った取り組み云々、という題目を掲げるところが増えている。

筆者の感想は、ご婦人と一緒であり、「自分たちの遥か上空から降りてくる計画に妄信するようなら『自治』なんてやめてしまえ」と思う。もちろん、地球全体のことに対する視野を持って人生を送ることは間違っているわけではない。しかし、地球全体のことを考えること=国連の計画を達成することではない、のは自明のことだ。

自分たちの社会がどうあるべきか、を肌感覚で学んで政治に反映させて漸進的に改善していく場が地方自治の場であり、ハナから権威任せに子どもに国連の計画に従った内容を学ばせる場を「自治体」と呼ぶのはナンセンスだろう。大人が自分たちの地域課題も自分達の日常生活から発見できず、遠く離れた地球の裏側のNYで作られた計画に頼る姿を子どもに見せるなど教育上望しいことではない。

地域の問題はSDGsなどに頼らなくても地域住民には自明のものであり、仮に国連に頼らないと地域の政策課題も分からない・決められないような地方議会なら、調査能力・政策提案力の機能不全を是正するべきだ。

貧困問題をどのように改善するべきなのか

上記のご婦人が示した素朴な感想は、保守主義者であり自由主義者であるなら当たり前の感想であるが、今の社会では必ずしも主流の言論とは言えないだろう。少なくとも、大学界隈、国際機関界隈、政府関係者界隈で良い顔したいなら、「SDGsを子ども達に率先して学ばせるべきだ」と言っておかねば、人でなし扱いを受けて非常に言い心地の悪い思いをすることは間違いない。

SDGsはODAなどの政府支出の拡大を求めている。2018年7月26日・衆議院第一議員会館国際会議室で行われた「SDGsのための国際貢献と国際連帯税を考えるシンポジウム」(共催:グローバル連帯税フォーラム、国際連帯税創設を求める議員連盟、協力:外務省、日本リザルツ)によると、

「今日グローバル社会は「(地球上の)一人も取り残さない」というSDGs(持続可能な開発目標)達成の時代に入っています。ところが、その資金需要は途上国向けだけでも不足額が年間2.5兆ドル(約280兆円、UNCTAD)にも上り、これでは年間1500億ドル(1兆6000億円、2017年)程度の政府開発援助(ODA)では圧倒的に足りません。とくに貧困国や各国の貧困層への衣食住や水・衛生・健康・教育など社会の基本的サービスを保障するベーシック・ヒューマン・ニーズ(BHN)を満たすためには、公的資金が不可欠であり、ODAとは別の新しい公的資金源としての国際連帯税への期待が高まっています。」

とのことだ。筆者は考え方が違うため、今回はこのシンポジウムに対して何を言うこともなく、保守主義者・自由主義者に向けて話そうと思う。共産主義者や社会主義者はこの文章を読む必要はないだろうし、むしろ現在の世界の流れに従って要らぬ波風を立てないほうが良いだろう。

ちなみに、Finantial Timesによると、SDGsは議論の過程で、目標が8個から17個に、ターゲットが18個から169個まで肥大化したとのこと。然もありなん、SDGsに入らないと獲得予算が縮小するであろうことは明らかで、内容を見ても皆が必死にグローバル官僚機構に群がったんだなということを感じるモノだった。

SDGs・グローバル社会主義時代の自由主義者たちへ

世界の貧困は直近30年の間に大幅に改善されてきた。その改善に具体的に貢献してきた最も大きな原動力は「市場経済」であり、開発援助はその一部を担ってきたものに過ぎない。近年の開発国の急速な経済成長による貧困の改善を見ればそれは明らかだろう。開発国には過去の因習・権力構造などが政府の圧力と結びつく形で残っているため、一朝一夕に問題解決とはいかないものの、徐々に状況が良くなってきているのは疑う余地もない。

開発国の政治腐敗によって政府援助は効果的に機能してきておらず、対処療法ではない根治を目指す貧困改善には自由市場またはコミュニティによる経済条件の整備こそが必要なのだ。そのため、必要なことは政府支出拡大、まして増税などではなく、グローバル経済への接続を進展させることだ。

筆者は「持続可能な社会を作る必要がない」と述べているわけではない。国連が「計画」を作って「各国政府」がそれを達成するために税制・規制を用いることに疑問を感じているだけだ。むしろ、そのような「社会主義の焼き直し」のようなプロジェクトは歴史を見れば失敗する上に人々に災厄をもたらすものである可能性を危惧する。

SDGsが採択された際の国連総会でジンバブエ史上最悪の独裁者であるムガベ大統領などもSDGsを歓迎した。当然、国民への過酷な迫害を続けている他の国々もその積極的な賛同者として名前を連ねた。なぜなら、我々先進国・民主国からの更なる援助を通じてこれらの独裁者の体制を支えるマネーが注ぎ込まれることになるからだ。

更に言うなら、北朝鮮との間でSDGsについて合意しているわけだが、金王朝の独裁体制を転換する方策を立案することのほうが大事じゃないのか。

当たり前のことであるが、世界の国民の幸福を願うならば、独裁体制から民主制に移行し、そして市場への適切なアクセスが確保されることこそが重要である。我々の手に国連での投票権があれば独裁国の体制維持に繋がる支援にYesの投票をするだろうか。我々が行うべきは独裁国の体制転換へのYesであり、独裁者のために我々の税金が実質的に使用されることにはNoに決まっている。それらの国では政治体制の転換が起きれば自然と国内事情は解決に向かうだろう。しかし、我々一国民の手には、国際機関の決定を左右するための投票権は存在しない。

そして、グローバル・ガバナンスの強化は、必ずグローバル社会主義の台頭を促すことになるだろう。当然であるが、その時には、それらを担うグローバルな政府のガバナンスに関する「投票権」は我々の手には存在していない。国連の多数は劣悪な政治状態の国々の指導者の手にあり、そして、自国の利益を追求する大国、自らの組織拡大にまい進する国際官僚とその取り巻きがそれらの腐敗した国々からの支持を政治的に利用している。SDGsの指標の肥大化などはその氷山の一角が表出したに過ぎない。そのような組織が支配する未来、そして自治を失った未来都市が、ユートピアか、ディストピアか、考えるまでもなく分かることだ。

必要なことは「国連による計画」ではなく「世界各国の保守主義者・自由主義者の連帯」であり、世界から人々に不幸をもたらす政治体制を無くしていくことだ。世界の変革に貢献する地に足のついた人々の奮起に期待したい。偉そうな学者や役人が推進する国際計画よりも市井のご婦人が述べる素朴な発言に真実が含まれていることもあるのだから。


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