2017年05月

2017年05月23日

経産省次官・若手ペーパーへの意見に対する考察に見る言論ガラパゴス

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リバタリアンとしてぶった切ったら、意外と盛り上がっているみたいなので一度だけ返事しようと思う


経済産業省の次官・若手プロジェクトが作ったペーパーについて、リバタリアンの視点から容赦なくぶ一刀両断してほしい、という要望を受けて下記のようなコメントを述べさせていただきました。

「時代遅れのエリートが作ったゴミ」発言者に訊く!若手経産官僚のペーパーに感じた違和感とは。 | 一般社団法人ユースデモクラシー推進機構

夜中に行われたインタビューだったので眠くてやや表現が過激になりました(笑)が、日本国内の左寄りの方々から下記のように議論を整理して頂いたので、筆者も一度だけ応答しようと思います。

経産省「次官・若手ペーパー」に対するある一つの「擬似的な批判」をめぐって – HIROKIM BLOG / 望月優大の日記
選択肢を理解する――経産省、若手・次官プロジェクト資料について
鈴木謙介氏の整理に沿ってーー経産省「次官・若手ペーパー」論(3)

筆者はこの手のダラダラとコメントするタイプの感想を述べるのは気が進まないのですが、自分自身の主張を他者のパースペクティブで全く異なる文脈で整理されることについては文句を言っておこうと思います(笑)

日本の言論空間の感覚はガラパゴス化によるイデオロギーの選択の幅が狭すぎる

さて、筆者が論評を頂いた内容で決定的に違和感を感じる点は、筆者の主張と経済産業省の若手の政策的な方向性が同一のものとして整理されていることです。

たしかに、経済産業省の若手の本音は、筆者と同じ新自由主義路線であると思います。それは現場第一線にいる彼らが政府の限界性を最も強く認識していると理解しているからです。(買いかぶりかもしれませんが。。。)

しかし、彼らの本音はともかく、筆者は経産省ペーパー自体を新自由主義路線だと解釈したことは一度もありません。むしろ、筆者は経産省ペーパーも望月氏もその程度の差は微々たるレベルの社民主義的な内容だと解釈しています。

望月氏の見解では、経産省ペーパーや筆者は同じように新自由主義路線に見えるのかもしれません。

しかし、筆者の視点から見ると、経産省ペーパーの上に示された内容はあくまでも彼らの立場による「小さな政府を目指すフリ」をするポジショントークであり、現実には他省庁の権益に切り込むための文章でしかないものと理解しています。

政府規模の拡大を事実上容認し続ける支出拡大の方向性すら含む同ペーパーの内容と望月氏が望んでいる社民主義的な政策の方向の本質は同じものです。

社民主義的な方向性が明らかである望月氏の主張から自由主義的な方向に一歩だけ足を踏み出したとしても、筆者にとっては同じ社民主義であって何も変わらないのです。

この程度の内容が新自由主義的な方向に見えてしまうこの手の政策理解の幅の狭さこそが日本の言論空間のガラパゴス化を象徴するものです。そして、この政策議論の振れ幅の少なさが現在の日本の政策の手詰まり感を産み出す原因だと思います。

正直に申し上げると、この程度の新自由主義的な方向性の主張を筆者が述べている政策の方向性と同じものとして扱われることは心外であり迷惑です。

日本が新自由主義化しているという誤り、日本はケインジアン的な縁故資本主義国に過ぎない

筆者、そして望月氏と鈴木氏の間では、現在の日本の政策の方向性が新自由主義的あるという理解すら違いがあります。

日本政府の一般会計の予算規模は、一時的に減少した年度もあるものの、基本的には増加傾向にあります。地方自治体の中には自主財源が数%しか存在せず、中央からの財政移転でほぼ全ての歳出を賄っている財政的自治を事実上放棄した自治体も少なくありません。

首相が企業に賃上げ要請を行うなど民間経済に公然と介入し、ベンチャーとして新規事業を行うにも様々な業法による縛りによって自由に事業を営むことすらできず、経済産業省なども含めた天下りが民間企業で幅を利かせています。

日銀による異次元緩和や年金の株式運用比率の上昇など、民間市場に中央銀行や政府機関が与えるインパクトも極めて増大してきました。日本の年金制度は政府が運用する世界最大級のネズミ講でもあります。

また、移民・難民政策という観点に立ったとしても、トランプは2017年は年間5万人の難民受け入れを発表していますが、日本の難民受け入れ数はトランプ政権の方針を遥かに下回るものです。

で、日本政府の政策の一体どこが新自由主義なのでしょうか。筆者には毎年のように日本政府が肥大化しているようにしか見えません。

筆者はハイエクが創設したモンペルランソサエティーなどの「本物の自由主義者が集まる国際会議」に参加する機会もありますが、日本経済や安倍政権を「新自由主義だと解釈する人は一人もいません」よ。そのような話をしても失笑されるだけです。日本の位置づけは完全なケインジアンです。

ちなみに、派遣労働が拡大した時期のように、経営側にレントシーキングを与える規制をそのままにして労働法制を中途半端に緩和した行為は、新自由主義ではなく縁故資本主義そのものです。経営の生産性を上げずに労働者の一部のみの法制を緩和した場合に所得が下がってしまうことは当然です。縁故資本主義が社会のあらゆるビジネスシーンに蔓延する日本でトリクルダウンが起きるとも思えません。

このような政府と企業幹部が癒着した腐敗した政治スタイルは縁故資本主義と呼ばれるものであり、新自由主義と同一のものとして語るべきではありません。縁故資本主義は倫理的にも正当化されるものではありません。

また、硬直化した教育行政などによって労働者への職業的教育が時代に対応したものにならず、教育の質が向上した途上国労働者との競争に敗れたことによる所得減少は政府の失敗ではないかと考えます。筆者の教育の考え方はこちらを参照ください。(「教育無償化」の憲法明記という思考停止を超えた改革を

日本の問題は言論のイデオロギーの幅の狭さ、役所関係者以外の言論空間への参加を希望

長くなってしまいましたが「何を言いたいか」というと、「新自由主義」でもないものが「新自由主義」だと見えてしまう現在の日本の有様は、言論空間に参加しているアクターが、

・左派系の大学研究者
・役人または元役人
・グローバルなリベラルエリート
・大企業お抱えの総研の人

というエスタブリッシュメントばかりであって、日本の言論空間の中央値が大きく左に寄り過ぎており、イデオロギーの方向性を議論するほどの自由度がないということです。米国で言うならサンダース支持者やヒラリー支持者の声ばかりということになります。

筆者は何度もベンチャー企業の立ち上げに関わってきましたが、毎回のように役所の規制(しかも不明瞭な)に悩まされます。自営業者、中小企業、ベンチャー企業、フリーランスの方は役所から目をつけられるのが嫌なので公の場で堂々と政治的な発言しません。(彼らを政策的に代弁するヘリテージ財団のようなシンクタンクもありません。)

それを良いことに日本では左派寄りの言論人が幅を利かせすぎており、政策議論のイデオロギーの振れ幅の健全性が完全に失われた状態となっています。そのため、欧米の基準で言論のイデオロギーを表面的に分類しているように見えても、本当は顕微鏡で見るような誤差の範囲に過ぎない違いを無理やり区分している状況となってしまいます。

一例を挙げるなら、新自由主義を支持している米国の共和党保守派の大統領予備選候補者であったテッド・クルーズは商務省廃止論者でした。(日本の経産省廃止に相当)経済産業省のペーパー程度の内容が「新自由主義的な要素が含まれている」と過大評価を受ける日本とは全く別次元です。

上記の日本の言論制約の中で作られた同ペーパーに明確なソリューションが無いことは当然だと言えます。なぜなら「そこ」には答えはないからです。

現在の言論空間の貧困状況を続けるならば、10年後にもほぼ同じ内容のペーパーを経済産業省は提出していると断言させて頂きます。そして、その頃には確実に政府は更なる肥大化を遂げていることでしょう。



本記事の内容は所属機関とは関係なく渡瀬個人の見識に基づくものです。取材依頼や講演依頼などはyuya.watase02@gmail.comまでお願いします。


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yuyawatase at 22:06|PermalinkComments(0)国内政治 | 小さな政府

2017年05月12日

「禁煙条例」推進者に対する反論

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東京都が推進しようとしている「喫煙禁止条例」に対する考え方

喫煙及び受動喫煙によって発がん性が上がるかどうかについては様々な意見が存在しています。今回はその点について議論するのではなく、「東京都内で屋内で一律に喫煙を禁止する」ことの妥当性について考えてみたいと思います。

東京都が屋内で喫煙を禁止することを正当化する理屈は「それが強制的なものであるか」ということが問われるものと思われます。つまり、喫煙を許可している物件があるとして、非喫煙者が当該物件の利用が不可避であるケースであれば一定の妥当性があり、それ以外については非喫煙者が「利用しない」という選択を行うことで話は終わります。

筆者は既に禁煙していますが、禁煙ファシズムへの抗議の意味を込めて葉巻写真を使い続けています。自分が積極的に行わないことでも他者の自由も最大限尊重する世の中を目指しています。

受動喫煙が懸念される場所の大半は利用者によって「利用しない」という選択が可能

上記の厚生労働省が実施したアンケート調査によると、受動喫煙を体験した多い場所は「飲食店」「遊技場」「職場」「路上」ということになります。

このうち、「飲食店」は喫煙スペースがある店は利用しなければ良いだけの話です。喫煙が人々から嫌われる慣習であればあえて同店舗を利用しなければ潰れていくことでしょう。また、喫煙のみor禁煙のみの店舗はそれぞれの嗜好に合わせた独自店舗として付加価値を提供できます。

つまり、飲食店は利用者の自由意志で店舗が選べるために禁止する必要はありません。この点に関してはパチンコ・競馬場などの「遊技場」も一緒であり、議論の余地はないものと思われます。

次に「職場」についても同様のことが言えます。職場によっては喫煙がそもそも望ましくない職場もあり、それらはCSやESの向上のために各職場が戦略的に実行すべきでしょう。喫煙の有無によって働く人のインセンティブも変わるので、それによって職員の採用に影響が出るのは各職場の経営者の勝手です。

喫煙を望まない優秀な労働者を集めるために積極的に禁煙にするのも良いですし、その逆も然りです。労働価値説が通用するような非生産的な職場であればタバコタイムは無駄なので経営者判断で禁止すべきかと思います。しかし、これも経営者の判断に対して労働者は職場を選べるので、政府が禁止するような話ではありません。

議論がある点は路上と公共施設でしょう。路上や公共施設は喫煙者も非喫煙者も利用を回避することはできない、そして両者ともに納税者でもあることから「分煙」が正しい対応になります。喫煙者・非喫煙者の双方が納得できる形の対応を取るべきです。(WHOが主張するように欧州の一地域の分煙の無効性似に関する特定調査のデータで日本にも同様の規制を求めることは議論が粗雑に過ぎます。)

ちなみに、「家庭」についてはそれほど受動喫煙が嫌なら結婚しないor同居しない、という選択を取ればよいです。または、どの場所で吸うかなどのルールを家庭の自治で決めることが可能なので、一律に禁止することは理屈に合いません。子どもの受動喫煙などは虐待の問題として別途扱うべき問題です。

賃貸物件の場合は、喫煙を許容するか否かは物件オーナーの方針によるところもあり、民間同士の賃貸契約に政府が介入する必要もありません。オーナーと利用者が情報開示を適切に行うことで対応できます。

極めて解像度が荒い国際機関による条約内容を受け入れる国・地方自治体は無能だ

東京都知事や厚生労働大臣が屋内禁煙にこだわっている理由は、国際機関による条約を守らなくてはならない、というインセンティブが存在しているからでしょう。

2005年に日本も批准している「たばこ規制枠組条約」が発効し、受動喫煙の防止対策、製品への警告表示方法、たばこ税引き上げまで盛り込まれています。また、同条約に基づく「たばこの煙にさらされることからの保護に関するガイドライン」の中では屋内施設の100%完全禁煙が求められています。

そして、これらの条約の影響もあって、2010年から国際オリンピック委員会と世界保健機関が「たばこの無い五輪」を推進しています。

しかし、筆者は「国際機関が主張している世界の常識」を日本もさっさと受けれ入れろ、という意見には一切与しません。なぜなら、地域における政策はできるだけ住民に近い場所で判断するほうが適切に判断できるからです。

上記のアンケート調査を見ても明らかなように、飲食店などは自由意志で利用の有無を選べるため、一律に禁止する必要はありません。また、遊技場などの屋内施設については議論する余地すらないでしょう。

つまり、国際条約・ガイドラインの立案者は、個々の地域の内情までは情報の非対称性の問題で分からないので一律禁止しろ、と言っているに過ぎず、補完性の原理を無視した全く非効率で非民主主義的な決定に過ぎないからです。

要は政府や地方自治体が国際条約を根拠に自らが定めたい条例制定について法的正当性を訴えることは、自らが住民の個々のニーズや実態を把握できない無能な政府であることを証明しているのです。

また、喫煙によって何らかの特定疾患の医療費が増加するとした場合、その疾患に対して既存のたばこ税の使途を特別に割り当てるだけで良く、従来までのようにたばこ税を一般財源として扱うことがそもそも間違いです。

仮にオリンピックを実施するために質の悪い条例を制定し、国民の自由を制約することを優先するならオリンピックなど必要ありません。



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yuyawatase at 14:21|PermalinkComments(0)国内政治 | 社会問題

2017年05月09日

「教育無償化」の憲法明記という思考停止を超えた改革を

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「大学・大学院まで含めた高等教育を受ける権利」=「教育を税金で提供すること」ではない

大学・大学院まで含めた高等教育の教育無償化(税負担化)について、多くの人が根本的に勘違いしていることは「人々が教育を受ける権利を保障すること」を「人々に教育を税金で提供することを保障すること」と勘違いしているということです。

この2つは似ているようで全く違うものを意図的に混同しています。

まして、「大学・大学院まで含めた高等教育の教育無償化」を憲法に明記することは完全な思考停止の産物であり、学生のためにも社会のためにもならなことを説明していきます。

「高等教育を受ける権利を保障する方法」は「税金で保障する以外にも十分に可能」

さて、そもそも大学教育を受けるために人々が必要とする金額は幾らでしょうか。現状の最低価格帯は卒業までに約70万円程度です。これは放送大学などの通信制大学の価格帯の話です。

授業内容という意味では大学教授に中途半端に対面で習うよりも余程しっかりした内容が教えられています。仮に4年間かけて卒業すると仮定した場合、1年間16~17万円、月に1万数千円の負担ということになります。

さらに、筆者も大学に関与する立場を持っていますが、正直に言ってしまえば「4年間も大学に物理的に通う必要性」は教育を受けるだけならありません。むしろ、現状の大学は毎週ごとに自分の著作を教科書に指定する教授の話を一章づつ延々と聞くだけの授業が多く、指定された教科書を一冊読み切って理解すれば単位が取れる課目が大半です。

大学教育が高くつく理由は、研究者が教室でダラダラと4年間も教える、という現状の大学の高コスト体質が問題なだけでしょう。奨学金問題は役に立たない授業をダラダラと提供し、その教育価値も良く考えずに金を貸す体制にこそ原因があります。大学の授業の方法は時間コスト・金銭コストも含めて理にかなったものではありません。

人々に等しく大学教育を提供するためには、現状の古臭い対面形式の授業ではなく、各課目をオンライン化して低価格で効率的に提供することで対応できます。誰もが研究者になるわけではないので、専門分野の最低限の知識を享受できる環境の構築ができれば大半の学生の教育には十分です。

上記の月1万円のコストを負担できない人はそもそもやる気がないと看做して良いでしょう。どうしても、それでも全ての人に月1万円を払ってあげたいという方は私設の奨学金を用意してあげてください。皆さんの給料の一部からでも払えます。

「インドの大学」で見かけたドイツの大学のオンライン授業の営業活動

筆者がインドの大学に仕事で訪れていた際に、偶然にもドイツの大学関係者が来印して当該インドの大学の関係者とビジネスミーティングを開いているところに出くわしました。

ドイツの大学関係者の人々は、インダストリー4.0などの最近のドイツの工業事情も踏まえた非常に質の高いオンライン授業のパッケージを構築しており、英語が比較的得意なインドの学生向けに同パッケージの営業活動に来ていました。筆者は話の流れでプレゼンテーションの場に同席することになり、大いに感銘を受けた事を覚えています。

インドは大学が一大産業となっており、筆者がお会いした大学経営者も6大学を経営しているというビジネスオーナーでした。その下で働くスタッフもドイツのオンライン授業がどのように学生に役立つのかを真剣に質問していました。卒業生の質の確保も含めた激しい競争下にあるインドの大学の姿は日本の牧歌的な雰囲気の大学とは趣が違うものでした。(ちなみに、このインドの大学は中の下ぐらいのレベルです。)

上記の話は授業のオンライン化などが世界的にも進展しているという教育環境の変化の一つの事例です。もはや対面で授業を行う必要がなくなっているだけでなく、他国の大学の優れた授業をオンラインで受講することが可能な状況が生まれつつあり、日本の大学教育も根本から見直しを検討するべきでしょう。

「高等教育の教育無償化(税負担化)」の憲法明記は教育の形を固定化して時代遅れにする

大学・大学院まで含めた教育無償化(税負担化)をどのように憲法に盛り込むのか、は議論があるところですが、憲法は一度制定されると再度改正することは極めて困難だと思われます。

そして、これらの税負担を前提とした大学・大学院の教育は、世の中の流れについていくことは極めて困難でしょう。なぜなら、政府の保護によって自由市場からの影響を排除した形になるため、教育機関間の健全な競争が働かず、社会からの要請への感度が下がることになるからです。

政府が大学を厳しく管理して競争を促すという発想もありますが、そのような発想はそもそも研究や教育というものを全く理解していないものです。政府が認定する教育内容というものは社会的に権威化されたorポリティカルコレクトネスにかなうものだけになる可能性が高いと思われます。

したがって、そのような大学教育は時々の支配的な思想・方法論に盲従するだけとなり、社会に革新をもたらすような優れた教育は行われないでしょう。学生に既に化石化しつつある教育内容を延々と受けさせることが「学生や社会のためになるのか」ということは良く考えたほうが良いと思います。

また、筆者は、シグナリング効果を除けば、大学・大学院という教育モデルが存在価値が問われる過渡期に突入していると感じています。社会から大学・大学院という教育の形が有効なものといつまで看做され続けるか疑問です。(大学によってはほぼ意味がないものと既に看做されているケースも少なくありません。)

そのため、教育環境自体が過渡期にある中で、大学・大学院を前提とした教育無償化(税負担化)を盛り込むことが実際には社会の革新を妨げることすらあり得ると感じます。

最後に、税金ジャブジャブで運営されるような機関は、新たな天下り先となることは必然であり、学生のための教育ではなく文科省と大学関係者が暮らしていくためのものになるだけです。社会を停滞させる利権作りはもう沢山です。

「正しい改革」の基本は「利用者側」ではなく「供給側」を改革すること

「特定の社会的なサービスを受けられないから、サービス利用者にお金を配る(税負担)」という発想は良いサービスも生まれなければ利用者のモラルハザードも生みだします。また、現状の制度・サービスの革新を考える必要もなく、単純に金をばらまく思考停止そのものです。

「全ての人にサービスを受ける権利を保障する」と言えば聞こえが良いですが、時代遅れのサービスを全ての人に提供することは間違いでしょう。また、サービス利用者がサービスの利用に適切にコミットするインセンティブを与えることも当然に考慮すべきものです。したがって、サービスの対価を税金で賄えば良いという単純な話ではありません。

本当に必要なことはサービスの供給側の改革であり、現状の高価格・低品質・長期間かかるサービスを、低価格・高品質・短期間で利用できるサービスに変更するために知恵を絞ることです。

サービス利用者を甘やかす行為は結果としてサービス供給者の怠慢を生みだし、結果としてサービス利用者の便益が低下することに繋がります。

「政府が税金で負担することが人々の権利を保障することだ」という思い込みはソヴィエトが存在していた頃から現役の人たちの時代で終わりにしてください。

そして、現代を生きる若者は自分たちがどのような教育を受けるべきなのか、を真剣に考えてほしいと思います。



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yuyawatase at 09:29|PermalinkComments(0)国内政治 | 社会問題

2017年05月05日

憲法9条と防衛大臣、本当に議論されるべきことは何か

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憲法9条改正で多くの国民が勘違いしていることとは何か

安倍首相が中途半端な憲法改正を打ち出したこともあり、左も右からも憲法論議が少しだけ盛んになっているように思います。

ただし、筆者は憲法9条については改憲論者(現状の著しく不合理な内容は改正すべき)ですが、そもそも憲法改正論議などという不毛な議論に政治的資源を割り当てることは論外だと思っています。

左も右も「憲法があるから戦争が起きない」とか「憲法を改正すれば中国・北朝鮮に勝てる(または抑止になる」とか、低レベルな議論はいい加減にするべきでしょう。

はっきり言いますが、「憲法」を議論すること、「安全保障・防衛政策」を議論すること、まして「戦争を議論すること」は全く別物です。

憲法があるから戦争が起きない、憲法9条を改正するから抑止になる、のでもなく、米軍・自衛隊の具体的な戦力及び日米に国際環境を形成する外交能力があるから物理的な戦争が起きていないだけです。

憲法の内容を変えることで戦争開始・戦争勝敗に影響があると思う「呪術志向」の人たちは実際の安保・防衛政策や戦争について議論することは危険なのでやめてほしいです。

象徴としての憲法9条改正を主張する首相と全く無能な防衛大臣の組み合わせ

安倍首相は憲法9条改正を主張していますが、実際の安全保障政策・防衛政策にどこまで関心を持っているのか極めて疑問です。

なぜなら、安全保障・防衛政策を所管している防衛大臣に不適格な人事を行っているからです。国会答弁の最中に泣き始めるような感情的な人物を防衛大臣に任命していることは話になりません。また、スーダンのPKOに関する日記問題では組織を全く統率できていないことも明らかになりました。

別の国会の場面では、稲田大臣は長島昭久衆議院議員に「特定の自衛隊の具体的な装備内容・予算」について問われて「事前通告が無かったので答えられない」と答弁していましたが、嫌がらせ的なクイズはダメとしても事前通告がなかった場合に如何なる兵装についてなら答えられるのでしょうか。法務・総務・財金畑のド素人を防衛大臣の席につけた責任は重いと思います。

また、外交交渉を担う岸田外務大臣は安倍首相にとっては現在政敵とも言える人物です。現在、重要な外交交渉は官邸主導で実施しているように見えますし、防衛・外務両大臣がまともに機能しているか不安を覚えます。

安倍首相が憲法9条改正を議論してもかまいませんが、現在の安全保障・防衛・外交政策の人事的な意味での適切化を行う方が先であるかことは明らかです。

まさか安倍首相は憲法9条改正が目の前の安全保障・防衛・外交の具体的な問題よりも大事だと思っているとは思いませんが、仮に今すぐ戦争になった場合に「稲田防衛大臣」「岸田外務大臣」で十分に戦えないでしょう。

憲法9条と安全保障・防衛政策・外交交渉は別物、具体論を議論する時代に

国民の多くは左右の識者たちの議論によって、憲法9条改正と安全保障・防衛・外交が結びついているように錯覚させられています。しかし、安全保障・防衛政策・外交交渉は具体論であって憲法9条と現実の戦争は直接的には関係ありません。

政府答弁によって攻撃的兵器を持つことは憲法上禁止されているとされていますが、このような地理的な概念に制約された兵器概念自体が時代遅れであり、不合理な政府答弁が見直されることは必然だと思います。したがって、このようなことも議論するまでもなく見直されるべきものであり、現行憲法下でも内容の見直しは可能です。(昨年の安保法制で事実上見直されたものと理解しています。)

その上で、国際環境形成、自衛隊の目的、装備内容、運用の実際などが体系だった議論によって行われていくべきです。日本の安全保障を守るために必要な議論とは、防衛大綱や中期防でどのような兵力を揃えていくべきか、などの具体論です。

国会議員のうち何名が日本の具体的な兵装の在り方についてまともに話ができるでしょうか。まして、現実妥当な装備計画、予算、運用について議論できる人は少数しかいないはずです。これが世界有数の軍事費支出を行っている日本という国の現状なのです。

また、北朝鮮への日本自らによる制裁だけでなく、米国に言われるまでもなく北朝鮮の貿易相手国に積極的に制裁を行うことを確約させるよう動くべきでした。米国の指示で慌てて関係国への働きかけを行っている日本の姿は悲しくなります。

国力の基本は経済力と外交能力であり、各国はその制約下で兵装を整えていくことが求められます。闇雲な軍拡はかえって国力を削ぐ結果を生みだすため、憲法改正したとしても軍拡をすれば良いという問題ではないのです。現在の国会の議論の状況ではどのみち実際の戦争に対応することは困難かと思います。

安保法制の議論の時の左派のような愚かな議論は必要ありませんし、ほぼド素人と言っても過言ではない防衛大臣を任命している場合でもありません。そして、国民もいつまでも憲法9条改正という、実際にはどうでも良い話題にかまけているべきではないでしょう。



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yuyawatase at 19:09|PermalinkComments(0)国内政治 | 社会問題

維新・橋下氏「教育無償化」は維新の存在意義の否定

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(敬愛する横山三国志から引用)

維新の法律政策顧問である橋下徹氏の教育無償化・憲法改正案の矛盾

憲法改正案の中に維新の法律政策顧問である橋下徹氏が大学・大学院を含めた高等教育の教育無償化を盛り込むことを提言されています。筆者は、教育無償化(税負担化)に根本的に賛成しませんし、また維新が同提案を行うことは自らの政党としての存在意義を否定するものと考えます。

産経新聞によると、橋下氏は「徹底した行財政改革で捻出した「税金の無駄」を充てた上で、不足分を相続税の引き上げで補う」と主張されているそうです。

もちろん教育無償化(税負担化)については色々な考え方があると理解していますが、筆者は地方分権を主張する維新が全国一律に同じ基準で政策を実行するという発想自体に反対です。

教育無償化に関する議論は権限・財源を移譲した上で地方自治体が判断すべき

大阪市役所によると、幼児教育の無償化(税負担化)を行う予定とのことです。また、大阪府では既に高校までの教育無償化(税負担化)を実施しています。筆者は政策の是非はともかくとして、このように税金の使途というものは権限・財源を可能な限り地方に移して地方自治体レベルで判断すべきと考えます。

政治は住民に近ければ近い方が望ましいものであり、税金の使途に対して納税者の関心が行き届くようになります。日本は既に都道府県レベルで一国に相当するGDPと予算規模を有しており、都道府県レベルではなく国策として大学・大学院を含めた高等教育の教育無償化(税負担化)を推進する必要を感じません。

仮に維新がいまだに地方分権を主張する改革政党であるとするなら、「教育無償化に関する議論は権限・財源を移譲した上で地方自治体が判断すべき」と述べるべきです。国民から遠い国全体に関わる憲法で税金の使途を定めることは地方分権の流れに逆行するものであり、ひいては維新の存在意義も無くなることになります。

地方自治体間の善政競争が国の競争力を産み出す源泉です。したがって、維新の基本的な方向性は「国全体で一律に決めることを無くし、地方自治体が独自に判断できる分野を増やすこと」ではないかと思います。維新がどうしても大学・大学院を含めた高等教育を無償化(税負担化)したいなら、地方自治体独自の判断で実行できるようにすることが大事です。

今回の憲法改正案はその流れに逆行するものであり、大阪府・大阪市(まして大阪都)で独自に判断・実行するのではなく、憲法に明記して日本全国に教育費無償化(税負担化)を強制する理由が分かりません。

現在の国政の事案を将来も国政の事案として語ることは間違い

維新は中途半端に国政に議席を保有しているために、「現在の国政の事案を将来も国政の事案として語る愚」を犯しているのではないかと思います。

高齢者に偏重しているとされている社会保障費を現役世代・子どもに振り向けるという政策、を実行したい場合、それを国政レベルで実行する必要性は本来ありません。

一度「国会病」または「有識者病」に憑りつかれると、現在国政の事案だから国政の中での組み換えを行うことが安易で分かりやすいために国政の範囲での予算組み換えなど役所の論理に議論が偏りがちです。筆者はそもそも税金で負担する話を「無償化」と表現すること自体が「お役所言葉」の典型だと思います。

結局は有権者から遠い場所で行われる議論はどれほど良い案でも紛れと骨抜きが幅を利かせることになるでしょう。維新の党是は補完性の原理に基づく地方分権改革かと思ったのですが、それは違ったのでしょうか。

社会保障の在り方も含めて積極的に地方自治体に分権していき、そして地方自治体同士が望ましい政策の在り方を競争していくことが重要なのです。

大学教育まで含めた無償化は地方に権限・財源移譲をした上で、大阪で先行実施して成果を見たら良いでしょう。その結果として、費用対効果などの成果が良いものなら全国に拡がり、その支出に見合った成果が無ければ大阪も止めるでしょう。このような柔軟な対応を可能とする点が地方分権を行うべき理由です。

一方、今回の橋下氏の改憲案のように憲法に明記した場合、政策に間違いがあっても政治的に後戻りが難しくなる違いがあります。自分が正しいと思うことだから日本全国で一度に適用する、というのは中央集権論者の発想であり地方分権論者の思考とは異なるものです。

維新は現在国政に議席を保有している唯一の「特定の地方自治体に基盤を持つ政党」であり、「国全体で物事を推し進めようとする」他の政党の「非改革的な姿勢」を見習う必要はありません。むしろ、憲法改正論議では、明確な地方分権主義を打ち出して他党とは一線を画すべきでしょう。

仮に高等教育に関して地方自治体が判断・運営する能力がない(一国並みのGDPを持ちながら)と思うなら、地方分権などを主張することは止めてしまって徹底した中央集権を主張するべきです。

明治維新は「地方の役人」が「中央の役人」に取って代わって中央集権を進めたクーデターですが、現代の「維新」勢力も結局は中央集権勢力ということなのでしょうか。維新が「国政での権力掌握を目指すための方便として地域勢力ではなく、本当に地方分権を党是とする政治勢力」なら、筆者の言っている意味が分かると思います。



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2017年05月04日

共和党保守派「水曜会」と自民党「部会システム」の比較

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(イメージ写真)

共和党保守派の水曜会・International coalition meeting で講演

共和党保守派が毎週水曜日にワシントンDCで開催している作戦会議でスピーチを行ってきました。この会議は完全内容非公開・参加者非公開・写真禁止・完全招待制というインナーミーティングであり、筆者もここで何を話したかということは多くを書くことができません。

強いて言うなら、上記の公開用イメージ写真の中心に座っている全米税制改革協議会グローバー・ノーキスト議長を中心に、様々な発言者が5分程度の問題提起を行って参加者からの質疑応答、終了後のネットワーキングが行われるというイメージです。今回は世界中から様々なシンクタンクの代表が訪米してスピーチを行っていました。

筆者はワシントンDCを訪問する度に同会議に出席させていただき、DCにおける最新の政治情勢のトレンドを収集させて頂くことが出来ています。

「水曜会」小さな政府を求める共和党保守派が作り出した政治システム

水曜会は共和党においては極めて重要な政治システムの一部を形成しています。一つの民間の政治団体である全米税制改革協議会が主催するイベントにも関わらず、毎週のように設定される新たな政治アジェンダに対して保守派としての情報共有や行動方針が決定する場だからです。

また、共和党の政治家への応援の可否、新たな政権・議会スタッフの紹介、各団体のアジェンダに対する意見がテンポよく表明されていき、保守派を構成する様々な団体の意向が実際の政治過程に反映されていく様子を見ることが出来ます。もちろんプレゼンテーターのスピーチの内容が悪ければ何も起きず、内容が大うけするようであれば同アジェンダは一気に進むことになります。

この場に集っている方々は原則として「小さな政府」を求める共和党保守派の人々であり、同じ価値観をともにする人々が次々とアライアンスを形成して政策実現に向けた動きを展開する「民主導」の統治システムだと言えます。

「部会システム」大きな政府を志向する自民党が作り出した政治システム

一方、共和党保守派の「水曜会」と対比して、ほぼ真逆の機能を果たしている統治システムが自由民主党の政調部会システムです。

自民党の政調部会では、会議室の正面に部会長、有力議員、その横に部会を構成する議員席、関連する官僚が座る役人席が用意されています。そして、業界団体などの利益団体に対して、業界の意向を受けて発言する所属議員の先生方が(概ね役人に質問または叱責するポーズをして)自分は頑張ってますよというアピールをする場となっています。(筆者が見ていた頃の部会のイメージですが、今でも大差ないものでしょう。)

部会システムは、自民党という政党自体が中央省庁とほぼ一体化して業界団体の利益を拡大していく高度経済成長期のシステムであり、既に時代遅れの感はあるものの共和党保守派の理念とは対比的な自民党側の「大きな政府」を志向する政治システムとしては極めて優れたものだと思われます。

「官高党低」という状況下で変化が求められる政治システム

最近の政治的な傾向として、政党よりも官邸が強くなる、つまり官邸に予算・人事の権限が集中して、政党がスポイルされる「官高党低」が問題視されています。これは経済財政諮問会議や内閣人事局に象徴される一連の行政改革の中で進められてきた官邸主導の政治システムが確立されてきていることを意味します。

そして、このような状況下では、政党が各省庁と一体化することで運営してきた自民党の部会システムは時代遅れのものとして機能しなくなってきています。中央省庁の役人も予算・人事を握っている官邸を政党よりも重視することは当然です。日本は議院内閣制を取っているものの、実態としては大統領制に近いものになりつつあると言えるでしょう。

そこで、政党が存在感を取り戻そうとするのであれば、中央省庁の方針に反対する民間勢力を糾合して一つの政治的な勢力を形成してくことが必要だと思います。現在のように中央省庁とぶら下がっている業界団体と蜜月を築くだけでは、政党が官邸に追従する現在の構造から抜け出すことは困難です。(実際、自民党は中央省庁に紐づく業界団体の声を民主主義の声としてきたので難しいかもしれないですが。)

政治は志がある政治家が一人いれば変わるものではなく、政治システム自体が変わることで初めて大きな動きに繋がっていきます。筆者はそのための政治システムの一つとして、共和党保守派が運営している水曜会は極めて優れたシステムであり、自民党などの主要政党の志ある人々は同システムを採用していくことが望ましいと思っています。日本の政治システムはまだまだ途上であって海外の事例を参考にすべき点が多々残っています。



本記事の内容は所属機関とは関係なく渡瀬個人の見識に基づくものです。取材依頼や講演依頼などはyuya.watase02@gmail.comまでお願いします。


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yuyawatase at 02:06|PermalinkComments(0)米国政治 | 国内政治

2017年05月03日

ヘリテージ財団訪問、対日政策の担当者と面談

無題

ヘリテージ財団訪問を訪問、世界の自由化と対日政策担当者と面談

Heritage foundation(ヘリテージ財団)を訪問し、Bryan RileyシニアアナリストとRiley Walters リサーチアシスタントにお会いました。

ヘリテージ財団はトランプ政権を支えるシンクタンクであり、Bryanさんは自由貿易政策の専門家で、NAFTAを締結した際のグラスルーツキャンペーンの責任者でした。現在世界各国の経済自由度を測定するEconomic Freedom Indexを作成する責任者です。

Rileyさんは上智大学に留学していたこともある人物で、日本語ベラベラでした。やはり自由貿易の専門家であり、日本の政策に関しては紳士でいい人だけれどもかなり厳しめ(笑)そして、ペンス副大統領に近いポジションであり、対日政策のアドバイザーでもあります。

特にRileyさんからは「日本の保守と米国の保守は考え方が全く違いますよね。」と言われて、拙著「トランプの黒幕 日本人が知らない共和党保守派の正体」(祥伝社)を読まれているのかと思いました・・・冗談です(笑)

ヘリテージのIndex of Economic Freedomの日本語訳の許可を頂く

今回、ヘリテージ財団を訪れた理由は、Index of Economic Freedomという世界の経済自由度を評価するレポートの日本語版での翻訳に関して許可を頂くためです。ヘリテージ財団側からは快く快諾を頂きました。(協力して頂ける出版社は随時募集しています。)

Index of Economic Freedom

この指標は世界中の国々(一部は都市)の経済自由度を測定し、それらの状況をランキングしているものになります。各国の中長期の経済成長の可能性を知る上で非常に有益なものとなっています。

2017年版では日本は40位であり、ルーマニアやジャマイカの同じくらいとして評価されています。日本の場合は高い民間の競争力で稼いだ点数を非効率な政府部門の評価によって点数が著しく下げているという残念な結果になっています。

モンペルランソサイエティ―でエド・フルナー所長にもお会いする予定

今回、訪米している中で5月のモンペルランソサエティーに参加することが本格的に決定し、同会議でヘリテージ財団創設者のエド・フルナー氏に会うことになりました。エド・フルナー氏はヘリテージ財団の創設者であるとともに、トランプ政権の最高顧問でもあります。

訪米している最中にヘリテージ財団内での人事変更があり、ジム・デミント所長が辞職されることになり、エド・フルナー氏が再びヘリテージ財団の所長に就任されたことからホットな話が聞けるのではないかと期待しております。



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