2015年11月19日

超高齢化社会を生きる①「最低賃金全廃」による雇用創出へ


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超高齢化社会を迎えて「個人としては人生をどう生きるべきか」が問われる時代となっています。そして、日本社会としては従来までの現役世代が支えてきた社会システム全体が崩壊し、ほぼ無制約な社会保障費用の増加の中で国家財政が危機的状況に陥っています。そのため、もはや既存の政策の延長線上に未来はなく、全く新しい発想で社会システムの再設計を行うことが必要となっています。

あらゆる政策のコンセプトが逆転する世界に突入しているという認識

現在の日本の政策の基本コンセプトは「ピラミッド型人口構造と全国的な人口分散状況」という戦後の高度経済成長期の状況を前提としています。これらの前提状況が完全に崩れ去ったにもかかわらず、その社会システムの基本コンセプトは維持されたまま、時代の変化への部分改善が実行されています。

正直に申し上げて「現在の政策は基本コンセプトが180%時代に合わない有害なものばかり」です。しかし、それらは利権と惰性によって日本社会を滅ぼす方向でビルドインされた毒薬として機能しています。

まず最初に私たちが持つべき認識は「私たちの目の前にある全ての政策は『本来あるべき姿と真逆のものになっている」ということです。この前提を共有することで初めて有効な処方箋にたどり着くことが可能となります。

社会保障費用を削減するためには「高齢者が低賃金で働く場所」が必要である

現在、政府はシルバー人材の再雇用を促すために、各種助成金などを整備して見かけ上の失業率の改善などを実行することに躍起になっています。

しかし、シルバー人材の培われた能力を生かすなどと恰好が良いことを述べてもその事例はほぼなく一時的な現象となるでしょう。なぜなら、そもそもシルバー人材の大半は「現代に求められているスキルを持たない労働者」だからです。

政府は高齢者票に媚びているばかりで真実を話すことが出来ていません。しかし、社会政策は社会の事実を的確にとらえた上で実行される必要があります。時代遅れになったスキルや就業経験不足の専業主婦などを正規の給料で雇う必然性はありません。

誰も働き続けることができる社会とは「特別なスキルを持たない高齢者」でも生涯現役として働く場が与えられる社会のことです。そして、それは助成金・補助金によるオコボレとしての労働を行うのではなく、たとえ低賃金でも自らの手で稼ぐことができることだと思います。

高齢者層が「働かない意識が無くなる」または「働く場所がない」ことによって、高齢者が本来得るべき所得が喪失し、社会保障費用の増大という重荷になって返ってきます。今後、高齢者の更なる人口増加を見据えて、本来であれば、高齢者が低賃金で働くことができる環境を作ることが重要です。

高齢者から雇用を奪う「最低賃金の全廃」という処方箋の実行

2015年10月1日から新たに全国的に最低賃金が上昇しましたが、現在の超高齢化社会の構造を考えた場合、本当に愚かな政策だと思います。上記の通り、最低賃金法は低収入でしか働けない高齢者から「就労の機会」を奪っているからです。

今後、現役世代の労働人口が減少していく中で、最低賃金がなくとも大方の現役世代の労働者の賃金は必然的に上昇していくことになるでしょう。むしろ、低賃金の高齢者の労働力を活用した場合、現役世代の労働者はより生産性が高く賃金の高い仕事に就くことができる可能性があります。

これらの高齢者によって低賃金の労働力が提供されることで、企業は新たな分野に投資する(つまり、現役世代が新たなスキルを得られる)仕事に取り掛かることができるからです。高齢者を社会保障費用がかかるコストセンターから新規投資を行うための原資の節約を担う貴重な資源となります。

まずは段階的に「年齢別の最低賃金」を設定して制度の廃止に向かうべき

直ぐに実行すべきことは「60歳以上の最低賃金を廃止すること」です。高齢者の再雇用や新規就業に向けた給料面でのハードルを下げることで就業機会を提供することが重要です。

そして、高齢者の就業機会を確保した上で、次は未成年の最低賃金を廃止するべきです。未熟練労働者に優先的に就業する機会を与えることで、仕事が何たるかを教え込む必要があります。最低限の礼儀・マナーなどを身に付けることができれば、まともな仕事につくことができるからです。

職業訓練のような人的資本への投資は必要ですが、それよりも就業体験のなかで実践的に仕事・スキルを学び取る機会は重要であり、スキルアップのための研修は別途想定すべきものとなります。

ちなみに、現役世代であるにもかかわらず、「昼間から賃上げのためのデモをしているようなスキルレスな労働者は、最低賃金があるから就労機会がないのだ」ということを学習するべきです。

そして、最初は低賃金から始めたとしても自らスキルを習得してより所得の高い仕事につくべきです。むしろ、それ以外に自分の給料が大幅に改善することはないと知ることが重要です。

段階的に最低賃金を廃止していくことを通じて、超高齢化社会の労働力を生かした社会を創ることが望まれます。





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現代の屯田兵?地方振興の理由は国土防衛?

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私は現在の税金漬けで首が回らない地方社会について日常的に相当辛口でコメントしています。そのため、地方の人々から色々なご批判頂くわけですが、妥当なもの、妥当でないもの、頭がおかしいもの、まで様々なご意見頂くわけです。

そのような中でたまに寄せられる意見として、地方から人が居なくなった移民・難民に対応できなくなるじゃないか!というお話を頂くので、このようなトンデモ議論を切り捨てておきたいと思います。

現代の屯田兵は外国の軍隊と本気で戦えますか?ということ

地方に予算を配分するときのトンデモ理論として、「外国から軍隊や難民が押し寄せたときに人が住んでないと簡単に土地が奪われてしまう、だから地方の切り捨ては許さん!」という発言を行う人がいます。

私が彼らに申し上げたいことは「あなたは何時から屯田兵になったんですか?」ということです。そして、「屯田兵であるとした場合、本気で『外国の軍隊』や『生きるために必死の難民』と闘うつもりがあるの?」ということです。

押し寄せる外国軍や難民と武器を持って戦えるものなら「やってみろ」と思います。相手は銃や刃物で武装しているはずですから、彼らと甲州兵ばりに戦うための民兵として戦力を養うつもりでしょうか?

仮に、今後中国や北朝鮮で問題が発生した場合、それらに対応する人々は自衛隊や治安組織ということになります。地方に暮らす人々は避難対象となるわけで直接対応いただく必要は全くありません。むしろ、余計な問題が発生するため、不法侵入への対応はプロフェッショナルにお任せしましょう。馬鹿げた妄想を捨てるべきです。

国土が侵略されている実態がある場合、それらの場所は国有地化を行うことで自衛隊や治安組織の監督下において管理されることが望ましいと思います。

トンデモ議論はどこから発生してくるかを真面目に考える

上記のような現代の屯田兵制を推進するトンデモ議論は一体どこで製造されているのだろうか。非常に不思議なことであり、一人二人ではなく何人もの人が同じ幻覚を見ているわけです。

簡単に調べて見たところ、下記のような国会議員さんの御活動がこのようなトンデモ論の根っこになるのだろうと思います。参考までに質問主意書の内容を貼り付けたいと思います。

国境の島の防衛と振興策に関する質問主意書(西村真吾 議員)



質問主意書の内容としては、韓国による対馬への実質的な影響力拡大について、国土防衛と離島振興が必要だというロジックで構成されています。

私も国土防衛は重要だと思いますが、国土防衛と離島振興は全く別物だと考えております。むしろ、国土防衛を行うだけなら、土地の無人化・国有化・監視強化を実施するほうが実効性が高くローコストです。

国会議員がリップサービスで非合理なことを口にするから、善良な国民が真に受けてトンデモ論を信じてしまう典型的な事例だと思います。上記の西村議員の質問主意書なども大筋としてはおかしくないのですが、国会議員の発言におかしな内容が混ざると国民は誤って信じ込んでしまいます。

国会議員は善良な国民にトンデモ論をバラまかないないでほしい

TPP反対・安保反対の時もそうでしたが、国会議員が何を述べるか、ということは発言の信憑性に強い影響を与えるため慎重になってほしいものです。

国民は防人でもなければ屯田兵でもありません。国民はそのような防衛負担を政府に任せているから税金を払っているのです。愛国心を利用したバラマキの正当化に対して断固反対です。





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大人の教科書(3)自由主義と民主主義の違いが分かりますか?

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民主主義と自由主義の区別を知っていますか? 

今年の夏は安保法制が盛り上がったこともあり、首相官邸前でSEALDsなどの左翼団体による抗議デモが随分と行われたものでした。私自身は道端で行われるデモは信号が通れなかったり、非常に迷惑だなあと思ったわけですが、それも人間の一つの権利なので仕方がないなと受容したものです。

彼らデモ集団が述べていた言葉の中で一つだけ気になったものがありました。それは「民主主義ってなんだ!」というものです。彼ら自体は民主主義者を標榜していたようですが、それは勘違いでしかないので「大人に教科書」シリーズに取り上げたいと思います。


「民主主義」とは国民による多数決で意思決定する仕組み

民主主義とは国民の多数決で意思決定する仕組みを指します。仮に議会制民主主義国の民主主義であれば、国会における多数決による議決が民主主義そのものということになります。

現在の日本の場合は、国会は最高裁が判断した「違憲状態」に置かれている議会の正統性が危うい点を捨象して考えた場合、自民党・公明党による多数決こそが民主主義だということになります。(ちなみに、自分は違憲状態における全ての国会の議決は正統性が危ういと思っています。)

いずれにせよ、多数決によって少数派の意見は押しつぶされること、が民主主義の機能の本質ということになるでしょう。そのため、民主主義=誰にとっても無条件に良いもの、という発想は間違っています。

デモなどの少数意見の尊重は「自由主義」の考え方によるもの

では、国会において少数派の政党の存在価値はないのでしょうか。民主主義という観点に立てば存在価値はほとんどない、と言っても良いでしょう。野党に予算案や法案を決める権限はありません。

しかし、野党も議会において自らが信じることを発言することは可能です。自らの主張を伝えることで与党の政策の変更や世論に影響を与えることができるかもしれません。

このような少数派が意見を述べる権利は「自由主義」によって守られていることです。自由主義は一人ひとりが自分の考えを持ち、それを実現するための行動することを基本としています。

SEALsなどのデモ行為も民主主義ではなく「自由主義」による権利の行使ということになります。彼らは少数派であるため、「民主主義ってなんだ」と声を上げることは言論上の自殺行為であり、民主主義の多数決原理が貫徹されるだけなら全く無意味な主張ということになります。

民主主義と自由主義を超えた大衆の歓呼による意思決定

このように民主主義と自由主義は極めて対立的な概念であり、その運用に関しては常に緊張関係があることが分かります。更に述べると、現在のように違憲状態の国会が続いた場合、議会制民主主義自体への疑義が増してくることも否定しません。

ところで、前述のSEALDsが述べいた「民主主義ってなんだ」は、議会制民主主義の代表者は「国民の声=デモなどでの歓呼」を代表していない、という意味で解釈することも可能です。

歴史上SEALDsと同様の主張を展開した政治勢力が存在しました。それは戦前のナチス・ドイツです。彼らは多数決や議会政治によって導き出される妥協を否定し、疎外された大衆による歓呼と拍手(デモも似たようなもの)で決めるべき、という主張を展開し、ドイツの議会政治機能を事実上停止させました。

民主主義の定義自体を変更することで、多数決による民主主義と少数意見の尊重である自由主義を乗り越えようとする思想です。まあ、このような思想の行きつく先の結果は官僚制の肥大化による全体主義につながるだけですが。

多様な価値観が共存する社会では自由主義の大切さを見直すべき

現代社会は多様な価値観が存在しており、そもそも多数決や大衆の歓呼で全体の意思決定を決める、ということ自体がナンセンスになりつつある状況です。

お互いの価値観の違いを尊重できるようになるためには、民主主義で決める範囲を小さくしていき、自由主義に基づいて自己決定できる範囲を拡げていくことが望まれます。多くの人たちが民主主義と自由主義の区別をつけて、自分が何を主張しているのかを理解できるようになれば幸いです。

現代議会主義の精神史的地位 (新装版)
カール・シュミット
みすず書房
2013-05-17




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yuyawatase at 12:00|PermalinkComments(0)大人の教科書 
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